「痛み」言説−−現象学的記述

①の続き。
河本英夫先生の「痛みのシステム現象学」では、多様な「痛み」について記述されていて面白かったが、「痛みの現象学」の必要性について以下のように書いている。


「触覚性感覚のともなわない痛みもある。それが内発的な痛みであり、純粋に神経性のものか、生理的反応をともなうのかは別の内発性を構成する。痛みは、なにかの兆候であるが、それじたいが身体の帯びる他に置き換えの効かない現実である。痛むことは、なにかによって痛むだけではなく、端的に痛いのであり、それは原因から由来する派生的な現実ではなく、たとえ何に帰着しようとも、そのことによっては変容させることのできない現実である。痛みは原因に帰着することもできなければ、たとえ構造的に配置しても、配置によっては何一つ変化しようのない端的な第一の現実である。このことが医学的な病院論や兆候論とは独立に、痛みの現象学が必要な理由となっている。」154


小泉言説との対立図式。「痛み」の配置なき由来は、「欲望」なのか「現実」なのか。


さて、例えば、稲原美苗さんの「痛みの表現」。これは「痛みの現象学」分類に入ると思うが、どのように書かれているか。


「患者一人ひとりの「身体化された主観性」を探る必要がある。私たちの主観性(自分と自分の周りの世界を感じて知る力)は常に変化し、それは置かれた環境や身体の状態によっても変化する。主観性と身体は密接な関係がある。「身体化された主観性」とは、精神と身体を一体化したものとして自己を捉えたうえで、その身体化された自己が持つ主観性のことを意味している。(ここで言う主観性はすべて「身体化された」ものを示す)。患者の主観性を考えると、その病状を持つ前後では、同じ人の中で主観性を大きく変化してしまい、同じような病状を抱えていても、それが先天的か後天的なものかによって、性別、年齢、性格、文化、職業等の違いによっても主観性は大きく変わってくる。つまり、身体は常に変化し続けるので、主観性も変化し続ける。だからこそ、最初に述べたように、痛みを客観化・対象化することができないのだ。それを単なる数値的な尺度で測定することがおかしい」89


→痛みの客観主義批判。


「診察中の「痛み」のコミュニケーションはしばしば失敗する。医師が痛みを把握できない場合、それを患者も感じるので、あまり多くを語らなくなる。さらに、これは痛みに苦しむ患者を孤立させてしまう。コールも話していたが、医療従事者と患者との間のコミュニケーションが最初から円滑に運ぶわけではない。双方が徐々に信頼関係を築いて初めて会話ができ、患者の主観的な視座で痛みと向き合うことができるようになる。つまり、痛みのコミュニケーションとは言語だけに頼る一元的なものではなく、患者の痛みを患者一人ひとりの「生態系」の中で捉えて、様々な角度からそれを見据えた表現方法を考えるものでなければならない」91


→痛みは「身体性」に根付くものであるからこそ、それを理解しようとする(あつかましい)立場性の人は、身体−主観−言語(+その他)を含む対象者の「生態系」とコミュニケーションを取らないといけない、という主張。


→とすると、「現象学」は少なくとも「主観主義」を擁護する位置を学問的要素として持つと捉えておいて間違いないか?