現象学の視座とは?

現象学の視座とは・・?
以下、谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)から抜粋

これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)


フッサールの根源的着想

・直接経験

→対象の認知は、実は直接経験から出発して事後的に形成されるイメージ

→自分の目で眺めて知覚する現象は、まさに根源的だが、

単に「主観的」だというのではなく、「客観的」ではないいう意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提


・超越論的還元

「私たちは、ほんとうは、表象の外に出ることなく、富士山のような対象の実存を確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信しているのだろうか。この問いを解くためには、ひとまず、非学問的な思いこみを停止し、表象の外部に当該の対象が実存していると信じるような(自然的態度の)傾向にストップをかけねばならない。これをフッサールは存在の「エポケー(判断中止)」と呼ぶ。そのうえで、私たちの目を、表象の外部に向かわせるのではなく、その内部(マッハ的な光景)に引き戻さねばならない。学問的な解明は、このように引き戻された表象(光景)の内部で行わなければならない。この引き戻しをフッサールは「超越論的還元」と呼ぶ」49-50


・超越論的主観性

フッサールが問うのは、こうした客観科学の客観性の基礎でもある。基礎は、客観性の「下」にある。「主観性」は、「下に置かれたもの」に由来する言葉であることを思い出しておこう。こうした主観性は、それ自体としては、まだ客観科学の意味で客観的ではない。つまり、これは、こうした客観性の下にあり、客観性に先立つような主観性なのである。この二重の意味で、それは主観性である。」53

「詰まるところ、超越論的主観性と言われたら、マッハ的な光景(直接経験)を思い起こし、それをー外に出ることなくー「超越論的」にとらえていただくのがよい。

フッサールは、こうした直接経験の領野=超越論的主観性に帰って、それを分析しようとしたのである。このような態度をフッサールは「超越論的態度」とも呼ぶ」54


現象学と心理学は対立する

心理学は自然的態度を取る。とりわけ近代以後の心理学は、自然的態度の派生形態である自然科学的(自然主義的)態度を取る。だから、現象学と心理学は対立する。p55


・現出・現出者
「私たちは「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験している」56
「現出者(等しい角をもった正方形)の同一性は、感覚・体験される現出(等しくない角をもった平行四辺形や台形)の多様性が突破されることによって、知覚・経験されているのである。こういう意味で、「客観の同一性」の表象は媒介されている」59
「現出者の知覚は、厳密に直接的ではありえない。直接経験における現出者の知覚が、じつは直接的ではないのである。では、現出者へのもっと直接的な関係があるのだろうか。幸か不幸か、現出者に対しては、これ以上に直接的な関係はありえない。知覚的な直接性は、(たとえば想起などにくらべて)最も直接的でありながら、しかしそれでもなお、媒介された直接性なのである」59-60


・志向性
「還元を遂行するフッサール現象学は、あくまでも、諸現出と現出者との関係から成り立つ現象を扱う学問である。
さて、直接経験(マッハ的光景)を基礎に据えたフッサールは、そこに諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きか「志向性」である」61