「障害受容」について考えること

 これから先、人が土地を選び、人を選び、場を選び、暮らしを生成するところで、つながりを持てず、生きづらさや暮らしずらさを感じる人とともにあるような、そういうところを作っていきたいと思っているが、これまでの自分の研究知見と何か関係しているのか、とも思い、少し考えてみる。
 「障害受容」というのは、上田敏の定義によれば、最終ゴール地点として、「積極的な生活態度に至ること」とあり、納得いく生活をつくっていこうとする主体性を持てているかどうか、といったその人の生活態度に着目している。これはもっといえば、障害を生きる、ということの意味や価値にかかわることだから、実存的な問いかけを常にしてくるものだということは「障害受容からの自由」(CBR)で書いたことだった。
 「障害受容再考」(三輪書店)では障害受容という言葉の支援者側の使用法に疑問を持ち、支援者が都合よく用いることの背景にある「支援モデル」について疑問を呈した。それは端的にいうと「個人モデル」であり、個人の能力に着目し、その変容を求めるアプローチをしようとするので、変えられなかった状況の正当化のためにこの言葉が用いられてしまっている、といったことだった。
 もう1点は「障害受容」は個人の変容を求める言葉であるため、他者・社会の変容することの必要性に着目していないため、本人に過負荷のかかる概念であるといった「障害の社会モデル」の観点からの指摘にもつなげた。「障害の社会モデル」は社会の変容を責任を追及するモデルであり、障害者権利条約の障害概念にも採用されているモデルであり、障害のある人の「人権」概念にも寄与している。
 それに関連して、ソーシャルワークがご専門の中島康晴さんは、新自由主義的社会への批判論の展開になかで「障害受容」問題(能力・効率主義的な価値観の受容)を取り扱っており、政治・社会思想レベルまでその問題は広がるのだなと感じた。
 「障害受容」から派生してくることは、単に障害のある人が障害を受容しているとかしていないとか、どんなステップがあるかとか、なにがあれば促進できるかとか、そういうことではなくて、人が自分の人生をつくっていく過程にかかわる、実存的な問いだったり、支援モデルがどのような社会を構想すべきかとか、人権とは何が守られいればよいのかとか、ともに生きる在り方など、様々な課題群を提供してくれているのだと思う。