「痛み」言説−−現象学批判

最近、「痛み」言説が大量生産されている感がある。以下の雑誌では特集が組まれている。知ってる人が多数執筆していて読みたいと思いつつ、いつのまにか今になり、ぼちぼち読み始めたところ。今度の某研究会の予習兼ねて。

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

予習ノートとして。
小泉先生の「傷の感覚、肉の感覚」は端的に言って現象学的言説構築批判と読める。例えば以下。

「(ギリアン・ベンドロー/サイモン・ウィリアムズの論を取り上げて)二人によるなら、痛みは生命と文化が交錯するところに位置している。だから、痛みは、社会学的な探求の対象となるべきものである。この探求が成功するためには、痛みの医療化を止めなければいけない。すなわち、心と身体の二元論にもとづいて痛みを感覚へと切り詰めて、痛みを合理的・客観的に測定可能で操作可能なものとみなしてしまうことを止めなければならない。なぜなら、そもそも痛みは日常的な経験、日常生活に埋め込まれた経験だからである。痛みは、たんに生物医学的で医療的な問題ではなく、社会学的・現象学的にアプローチされるべき問題なのである。
これは何度も繰り返されてきた言説であるが、実に奇妙な言説である。この社会学的・現象学的アプローチなるものは、痛みを神経生理学的事象や感覚に還元することはなく、痛みの心的・社会的側面を何らかの意味で区別してそれとして強調するのであるから、それこそ心身二元論そのものであるのにそのことがまったく抑圧されて自覚されていない。そのアプローチは、心身二元論を乗り越えると称しながら、まさに当の二元論の位置をずらすことによって、神経生理や感覚から切り離された心なるものを、生命と文化の交錯点として、ひいては文化や社会や政治経済の諸関係の束として設営して、それを学的介入の拠点に仕立て上げてきた。そして、そんな言説によって、心なるものが、教育・福祉・臨床・行政・統治の対象として構成されてきた。おそらく人間の条件に根ざしているが故にでもあろうが、この動向は強力である。この動向は、例えばホスピスを制度化するほどの力=権力を有している」136


「いま確認したいことは、心なるものを設定することを通して、そこに心理的・社会的影響を及ぼすならば痛みの経験を変容させることができるという信憑と欲望が絶えず生み出されてきたということ」137


「痛みの覚えは、物理世界の内部にあるいかなるものとも同一ではないところの主観的安「感覚ー内容」の覚えである」と深く深く新信奉されている。どうしてだろうか。」140


痛みは、切りつけられたことや切りこまれたことの経験ではないのである。そうではなくて、痛みの感じは、ナイフで切りつけられた指に生じる傷を感じることである。傷の原因は、ナイフの運動である。精確には、ナイフの運動を受け止めるのに切開をもって応じるようなそのような物性を有する肉体である。これに対して、痛みの原因は、あくまで傷である。傷という出来事、傷を発生させる生体の生理的出来事である。炎症物質や神経伝達物質の「ハリケーン」である。」141


「痛みは、概念的に捉えるなら、傷の感覚であり肉の変性の感覚であると言えよう。言い換えるなら、肉の修復の感覚、肉の変性の感覚、約めるなら、肉の(脱)発生の感覚である。そして、痛みは、経験的に捉えるなら、これは他の感覚と同じことであるが、中枢で感じられているのではなく、傷や肉において感じられている。さらに言うなら、傷が感じ、肉が感じている。このように痛みの概念と痛みの経験が成立しているからこそ、科学的に神経経路が探究され概念モデルが生成され、さらには中枢からの投射が持ちだされる。そしてこの文脈で、関連通などがあらためて科学的な謎として浮かび上がってくるのである。その上で、本稿が予備的に考えてみたかったことは、そのような科学的知見を、当初の痛みの概念と経験へと差し戻すにはどうしたらよいかということであった。そのことが考えるに値することであるのだと認められるのなら、20世紀後半以来の痛みの心理化や社会化の動向は退けられなければならない」145


論考の最後で、「痛みの概念と経験」について、「痛みは肉の過剰な生成変化の感覚」「肉に相当するものの「基体」の出来事の感覚」と表現している。

きちんと読めてないが、本のなかの他の痛み言説は「関係」から捉えているようなので、小泉先生の論文は言えばアウェイ感がある。「ホスピス」確かに。痛みの統治の象徴的機関と言えるかもしれない。