『障害受容再考』(地域リハビリテーション・三輪書店)の感想

『障害受容再考』(地域リハビリテーション・三輪書店)という今している連載の感想を頂きましたので、ご本人様からの了解を得て、全文を掲載させて頂きます。理学療法士として26年働いてこられたとのことで、大変貴重なご感想です。私が個人的に埋没させてしまうのはとてももったいなかったので、とりあえず、ブログにて公表させて頂くことにしました。本当にありがとうございました。


はじめまして。雑誌『地域リハビリテーション』に連載の「障害受容再考」を興味深く読ませていただいています。
 私は、経験26年目のPTです。これまで、小児(医療センター・療育センター)公立病院で臨床を積んだ後、行政機関での機能訓練事業などを経て、現在は地域包括支援センターで主任ケアマネジャーという立場で介護保険の予防プランや住宅改修、介護予防事業などにかかわっています。乳幼児、小児、成人、そして高齢者と、人間のライフステージすべてに関わってきたということになります。
 さて、「障害受容」ということについてのご意見、私も所々同感するところがあります。自分自身も患者さんや障害児やその親とのかかわりの中で、ご指摘のように「障害受容論」が必ずしも理屈通りにはいかないということを感じてきました。
 ただ、我々がPTになりたての時代のリハの潮流と現在のリハを取り巻くシステムの変化や医療制度の流れ、また障害者の権利擁護や諸制度の進歩により当事者としての主張が言いやすくなった背景というのも、この問題を考えるときには、けっして無関係ではないと感じるのです。
 私がPTになったころから10年くらいは、リハビリの体制も、CVAなら6ヶ月、脊(頸)髄損傷や難病であれば、1年(中には以上)くらいの入院も可能で、Dr・Ns・PT・OT・ST・MSWなどと何回もカンファレンスを重ねて在宅への準備を行い、在宅に帰るまでの期間を一緒に関わり結果的に障害受容に近いまでに人生を前向きに考える手助けができたように思います。そんな意味では、患者さんたちにも入院中に自分の人生をとらえなおす時間の余裕があった時代でもありました。もちろんご指摘のように「受容」の考え方には違和感はあるにしても、それでも患者さんたちは、急性期、回復期、維持期のプロセスをリハスタッフと共有することができた、そんな例はけっこうありました。
 今は在院日数の短縮や医療制度の改革で、患者さんたちは医療機関を振り分けられ、またそこに働くリハスタッフも昔のようにひとりの患者さんにじっくり付きあうという環境にはなくなりました。回復期を回復期病棟や老人保健施設の入所、また介護保険での訪問・通所サービスなどを組み込んでも、はたしてそこに関わるスタッフが(PT・OTのみならずです)どれだけ、「全人間的復権」というリハビリテーションの定義を忠実に理念に掲げてその利用者に関わっているでしょうか?
また昨今の病院リハでは、安静重視とは言わないまでも、医療スタッフも「在宅生活は介護保険で」と割り切っての医療・看護にならざるを得ず、(在院日数の制限もありますが)病院で在宅生活を想定したリハビリ(看護でもそうですが危ないからと病棟でも動きを制限されるなど))をせずに、ケアマネジャーにあとはお任せの風潮があるように思います。
 障害受容といっても、CVAのような中途障害者の場合・CPのような先天的または発達途上の障害の場合、またはそういう障害児を持つ親御さんの「障害受容」という場合とさまざまで、それぞれ三者三様のとらえ方をするでしょう。疾患別でもCVAとALSでは違うし、視覚・聴覚障害者でも違うでしょう。障害をひとくくりにできないのに、理屈(理論)では何でも「障害」という言葉で片付けられてしまっています。理論は理論として学問的には必要なことですが、実際の現場や障害当事者の観点とずれていることなんて多いわけです。
 また、障害を前向きにとらえ、いかにも周囲からは「受容」したようにみえる方でも、周囲のその人をみる評価や態度、その後の生活の変化などにより、以前は「受容」していたもの(したようにみえたもの)が、容易に心境の変化により、再度葛藤や戸惑いが生じることも当然あるわけです。そもそもその人を取り巻く人間関係や、社会や周囲の見方により、心の持ち方なんて障害があろうとなかろうと人間である以上いろいろ変わりうるわけで、「障害受容」できたからその人がその先ずっと価値を転換した生き方を前向きにとらえながら生きていくとは限りません。
最近ではそういうことを、当事者からの視点から考えていくという姿勢を打ち出す学者が少しずつ増えてきているというのは良いことかもしれません。また時代の流れとしても、障害当事者が公の場で物申す機会が増え、社会への提言として当事者から語られる言葉の重みを専門家のほうでも尊重する背景になってきつつあります。
 それは、比較的新しい分野であるリハビリテーション業界の過去の実践からくる反省が今の風潮とあいまって、われれ「専門家」も真摯に謙虚に受け止めようとするようになってきているのだと思います。
 例をあげれば、療育の世界でも、当時は、ファシリテーションテクニック全盛期でもあり、親も専門家の言うことは絶対と思い必死になって訓練に励んだりする姿が確かにあったし、「発達指導」という言葉も平気で使われていた時代です。しかし今の時代になって、次第に「上からの押し付け的な指導」に対する反発など、親や障害当事者も専門家に対して批判したり、自分たちで自己決定していきたいと思うようになりました。だから昨今では決して「指導」ではない「支援」「共感」をキーワードに療育界も関わるようになってきていると思います。
 ところで、第3回に書かれていた「回復アプローチ」と「代償アプローチ」の項を読んでいて思い出したエピソードを紹介します。
 療育センターに勤務のころ、経験も浅かったころですが、通所児のカンファレンスに参加したときのことです。私の担当ではありませんでしたが、アテトーゼCP児の訓練課題について上司の担当PTとSTでの意見の違いがあり、平行線で終わってしまったということがありました。アテトーゼCPの場合は、上肢や頸部から体幹にかけての不随意運動のため、書字をはじめ上肢のADLに困難を呈しますが、PT側は「まだ就学前だし、手を使ったADLの拡大の可能性を求めるべきだ」と手を使った生活をいかに改善させるかという課題を持っていました。しかし、ST側の言い分は「比較的不随意運動の少ない足でいろんな操作性を早く獲得してコミュニケーションの手段やADLを獲得させたほうがいい」というものでした。実際家では、足を使っておもちゃの操作もできていました。
 その双方の意見を聞いていて、たしかにどっちもどっちという内容に自分自身まだ若かったこともあり、反応できなかったことを覚えています。しかし、実生活の中では足を使って操作していたほうが多かったようです。その親御さんとは、何年かぶりで作業所のバザーにお伺いしたときにお会いしましたが、そのお子さんは、いまはその作業所の広報担当として、ホームページをつくる作業を足でパソコンを打って情報を発信しているのだということでした。
 私が幼少期のころに担当した障害を持つ子どもさんや親御さんたちのその後の経過や人生への挑戦を伺い知るとき、自戒もこめてですが自分たちのアプローチや関わりを改めて思い返しています。
(感想まで)
                      平成19年9月24日  三浦