小澤勲の認知症本

を読んだ。今までなんとなくあえて手に取らないというところがあって、なんでだろうとよくよく考えてみると、私の医者ギライが原因していたらしい。私は(いつからそうなってしまったのか)医者はろくなことを言わない・書かないという固定観念があり、この小澤勲という人も、名前は知っていたが「医者」というカテゴリーに入るから結果的にアウトオブ眼中になってしまっていた。で、結論からいうと、「認知症とは何か」という本を読んだのだが、この本は私のこの勝手な固定観念のマギャクを行っている。なんと言ったらいいか、あー認知症の世界ってこうなんだ、と、あと、私が認知症の患者さんと出会ってきてうまく言葉にできなかったところを様々言語化してくれていて、あーそうなんだ、あーそうだったんだ、あーそうそう、と、なにかこう、懐に響いてくる本だった。(あとなんだろね。ほのかにエロっぽい本(なんとなーく後読感がそんなかんじ)で、そこがとてもよかったかな、みたいな。)それを鮮烈に感じたのは、アルツハイマー型と脳血管性の認知症の小澤さん独得の特徴の示し方として、「共同性」と「個別性」というのをあげられていて、まあ、こんな類型化は、教科書的な無味乾燥な医学書にはでてこんな、というかんじで、おもしろかった。たぶん、うちにくる認知症の人って、どっちともつかず、混合型なかんじの人が多いんじゃないかなってかんじで、そうきれいにこの人は「共同性」、あの人は「個別性」とは分けられないのだが、でもたしかに、たくさん(と言っても5年間の経験しかないが)のご高齢の人と接していると、それこそ、そこは「共同性」と「個別性」が入り乱れた世界のようなかんじもする。あと印象的だったのは、「周辺症状」は、ケア(周囲の対応)しだい消える、てか、むしろ、周囲の対応によって「つくられてしまっている」と言い切ってくださっているところで、あ、やっぱりそっか、てか、勇気づけられたっていうかんじだ。日頃患者さん・利用者さんに接してて思うのは、不安とか、困惑とか、焦燥とか、抑うつ的であるとか、・・・・そんな、種々の陰性の気分?が、本来のその人らしさ、とか、能力てか、その人の自由気ままさみたいのを、ねじ曲げてしまったり、蓋をしてしまったり、するよね、と率直に思ってたり。また時に「中核症状」「周辺症状」の区別がつかず、周囲(職員)の「中核症状」に対する無理解が「周辺症状」の悪化を招いてしまうなんてこともあるような気がする。