じぶんの立場性

つまり、なんで、私が論文を書こうとしたりしているのか、ということ。私はそれで収入を得ているわけでもないから、この所作に労働インセンティブはまったく働いていない。それなのに、なぜ?である。しかもとんでも笑ってしまうのは、私はお金を払って書いているんである。学校に行ってるからね。1つには、ストイックな話ではあるが、金を払ってしまっている以上、その元を取るために書かねばならない、という気にさせる、というものがある。しかしそれにしても、もともと「書こう」という意志は前提としてあることになる。その「書こう」という意志に対して、(逆?)労働インセンティブを働かせるために、学校というものを活用する。普通な話しとしては、生産支援を受けるために学校を活用する、であるが、どうも私のなかには、やらざるを得ない環境を作るという目的で、学校を活用してきた、というのがこれまでのところあった。そうなると、「書こう」という意志はどこから生じてくるのか、という疑問がのこる。今の話しをまとめると、私は、労働インセンティブが作用せずとも、書くということを続けることになる。たぶん、そこが私にとって、重要な場所だ。そういや、前に、T先生が、「作業療法士は生活のためにやってる(でも研究活動は違う?)」と言い、「え?そうなわけ?」(+いやなことをいう人だ)と思ったが、生活が成り立っていれば作業療法士をやらないか、と言えば、それはわからないが、やってるような気がするが、研究活動、あるいは、論文やらを書こうとすること、は、もっと私の深いところからやってくることだけは確か、である。1つの気づきとして、http://d.hatena.ne.jp/fugu1/20051125、に書いたことだが、『なんでいつのまにか、こうして、「障害」というものにコミットしていたのか、ということだ。最初は、嫌悪からだった、ということを、今になって、はっきり思い出したようなかんじだ。その当時は、「現実に向き合う、直視する勇気」が持てない、と思っていたように思う。メカニズムは、たぶん一緒だ。となると、これまで私が動かされてきたのは、まさに、どうにもならない嫌悪という感情、ということになる。それは、そんな感情で見られたくない、と思う私をいかに救い出すかという作業だったとも言い換えられると思う。「不幸」という概念が、私(あなた)からみいだされてしまうことの不条理感にどうやって対抗していくか。なぜ嫌悪とともに不幸が生じ、私は私を見なかったことにしてしまうのか。なかったことにしてしまうのか。』ということ。とく研究フィールドを特定するときに、好きだから、興味があるから、とかで、あんまり「嫌悪」から、というのは言われないが、嫌悪というのは、猛烈大きい振幅だ。嫌悪するほどに心動かされているのだから、そして「嫌悪」する自分にもその振幅の大きさを問えるのだから、よいんじゃないかと思う。となると、修士論文などでは、「職場での問題意識から書いてます」と書いたが、それは間違いではないのだが、無邪気すぎたような気もする。正確に言えば「自分のために書いている」のである。職業意識から書いているのでもない、他ならぬこの私、として書こうとしている。となれば、単純に支援論を展開するという話にはならないはずだ。そんな話で私は救われない。あともう1つは、働き始めた当時の悩みに答えてくれるものを、ということもある。あの当時、私が立ってしまった立場性ゆえの苦しさをともなう悩みに、誰も満足のいく答えを用意してくれなかった。その当時の私に、答えを用意できたら、という思いもある。