つるたさんへ1

つるたさんから、「障害受容」について下のようなコメントをいただいている。
http://tu-ta.at.webry.info/200511/article_15.html

以下、それについての返信。


で、「障害受容」って、「体のある部分が動かない(機能しない)ということを理解すること」という以上に意味を込めて使われていたりするようにも思うのだが、そのあたりのことは、このブログの主に聞いてみたいところ。(もしよかったら教えてください。)Tさんが問題にしている「障害受容」は「体のある部分が動かないことを理解すること」ということ以上の意味付与をされたものについて、なのかなぁと思ったりするが、どうなんだろう。


そうですね。いろいろな恣意的意味内容を含んでいると思います。その辺、今度の予備論文(修士論文みたいの)に整理したいと思ってますんで、書いたら、ぜひぜひ、ご批判ください。


とりあえず、そんなことを考えてみた。じゃあ、身体障害以外の障害はどうなのか、という問いが、これを書いている間、ずっとつきまとう。「知的障害」と呼ばれる人については、あてはまることが多いのではないかと思う。文字が読めないことを障害と呼ばない社会はとても多い。また、例えば「自分はお金の計算が苦手」というようなことを自分で理解することは、生きていくうえで便利なことだったりするだろう。そういうことを理解できないか、あるいは理解出来ているかどうか、外からはわからない人もいる。そこでは「障害受容」がどうしたこうしたということは言われない。次に「精神障害」と呼ばれる人、これもまた障害者かどうかという切れ目がとてもあいまいな世界だと思う。このグループの中にも「自分はこういうことが苦手」というのをはっきりさせることで、楽になる人は多いように思う。じゃあ、ユニークフェイスを構成する人たち、ここも障害者かどうかという切れ目を表現することが難しい。そう、その「切れ目」はどんな障害であっても、それはその社会が作ったものなのだから、その切れ目を受け入れなければならないという言説がその程度にいいかげんなものだということは、そこから明らかになってくるように思われる。


そうですね。するどいご指摘だと思います。たとえば、「障害は個性」という考え方があるじゃないですか。それなんかは、障害/健常カテゴリーの分節化否定ですよね。あとは、障害を肯定化しようという意図も含まれている。それに対して、「障害受容」というのは、そもそも「個人モデル」的発想で、そうしたカテゴリーづくりをしてしまっているということがありますよね。しかも、「障害受容」というときの「障害」というのは、否定的な捉え方、ですよね。「障害個性」論と、「障害受容」論というのは、相対している、部分があるなということを、つるたさんの文章を読んでいて気づきました。


夜中に目がさめて、ネットを散歩し、「ふぐりんの雑記」に触発されて、つらつらと、とりとめのないことを考えていたら、もう一時間以上も経過している。今日も仕事なのだから、7時頃までもう少し寝た方が気持ちいいかな


ありがとうございます・・・。眠りを割いてしまって、すんません。でもうれしいですね。「ふぐりんの雑記」につるたさんの眠りを割くほどの威力があったかぁ。では。あっそうそう。そのうちpart2書きます。「違和感」系で。そちらも、ありがとうございました。さしあたり御礼のみ。