当事者性を引き受けるとか、降りるとか

「私からそうした他者性を消去してしまうことの否定が「私の肯定」と呼ばれるものではないか」
私的所有論から、こんな1節を発見。すげーよなー。どうやって頭使ったら、こういう言葉がでてくんのかね。とT先生に聞いてみたいが、私的所有論そのものが、T先生にとっては、すでに時間とともに溶解し、他者となってしまっているらしいので、おそらく初めて聞いたみたいな答えが返ってくるだろう。残念だ。このあいだ、「「障害」に関するいろんなことを考える上で、私自身、当事者である」と言ったところ、「しかし、障害がない人は、当事者性を降りられるが、障害のある人は、その当事者性を降りられない」と返答をされた。確かに、その違いは大きい、と思い、「当事者性を引き受ける」とか、「当事者性を降りる/降りれない」とか、そんな言葉が気になっていた。「障害」を「他者」と置き換えてみよう。それは、私にとっても、そして、障害を有するその人にとっても、「他者」であったりする。そして、私の、その「他者」に対して生起してくるものは、「当事者性を引き受ける」などという意志的なものではないのだ。むしろ、「降りれない」という表現の方が近いかもしれない。そして、その「他者」は、私にとって痛くもあるが、それでもその他者を見過ごそうとは思えないのは、その「他者」を「他者」として「在るもの」としないことは、「不快」だからだ。つまり、「他者」を「他者」として感じることが、いかに辛かろうと、苦しかろうと、痛かろうと、嫌であろうと、それにまさる「快」があってしまうという感覚だ。たぶん、たしか、私が「当事者性」という言葉に込めた意味は、その辺のことだったような気がする。いうなれば「訪れてくる当事者性(他者性)」。そして、それは、「私の肯定」とも深く関わる。「快」とは、「他者である私を肯定する」と同値なんだと思う。どうして「他者」を「肯定する」ことが「快」なんだろう。私が思うに、それがどういうわけか、あまりに美しく映ってしまうから、だと思う。それは別な世界を表しているのだ。で、話が飛ぶが、障害受容に関連して、作業療法士にインタビューをしてきたのを振り返り思うのは、その感覚は、みんなのものでもあるということだ。私だけの感覚ではない。「障害受容」という言葉がすたれてきた背景には、そうした感覚を支持したいという医療従事者という立場性をとる人たちの感覚、があったような気がするのだ。この言葉は「リハビリテーション」内で用いられるときに、「できること」に向かわせる視点を持つ。そのとき、「できない」と意味を持たせられた「障害」は、医療従事者からも障害を持つ本人からも、見捨てられることになる。「受容」などと表現されるが、そういうことだ。私がインタビューさせていただいた方のなかには、「どうもこの言葉を使う気になれない」と言う人が少なからずいた。それは「方法論が明確ではないから」とか、そんな明確な理由ではない。もっと感覚的なものだ。それは森岡先生いうところの、「知恵の次元」に通ずる回路かもしれない。たぶんそんなこんなを言語化していく作業は、(のざりんさんに教えてもらい知ってしまった!)「生命学」と呼べるものではないかな、という気がする。