実証されていれば肯定されるのか

なんだか変なタイトルだ。私の違和感はこういうこと。例えば、70年代、80年代における「障害受容」についての論文は、実証系の論文が極めて少ない。その後も、だが。つまり、その頃、「障害受容」は治療対象とすべき、治療できる、という感覚が、なんらの根拠ももたぬまま、できあがってしまった、と。それは確かに、ゆゆしき問題だ。だけど、じゃぁ、根拠があったら、それは治療対象として肯首されるのだろうか。つまり、科学性、実証性、客観性、というものがあれば、「障害受容」についての介入は、善となるか。ちがうと思う。「障害受容」というのは、障害とそれを有する本人との感情を介した関係性について、治療者側が一方的に指し示した「よい」とするあり方であって、それには、治療者側の障害に関する勝手な価値づけ、関係のあり方についての押し付けがあるわけで、そこがまず問われるべきだろう。科学性、実証性、客観性さきにありきの考え方は、まずそうした誤謬を生じさせる。というか、科学性、実証性、客観性は、そこにはなにも効かない、ということだ。もっと単純なはなし、科学性、実証性、客観性は、人の存在を肯定する力を何も持たないということだ。しかも悪いことに、科学性、実証性、客観性を言う人たちは、それを、自らの学問や研究領域における存在証明のために使う。科学性、実証性、客観性のクオリティのより高いものが、よりよい研究論文ということになっている。それは、AとBの方法論の善し悪しを問うためには当然必要であるにしても、研究者本人の存在価値と結びつけられるはずのものではない。こうして、科学性、実証性、客観性による正しさを信じ切ってしまう人たちは、自らの存在証明と同時に、人や自分を信じる、という当たり前の人間的な感覚を捨ててしまうのだと思う。