あっそうか

このあいだTVで、福知山線列車事故で助かった若い女性の映像がでていた。事故前の写真もでていた。そこには大きな違いがあった。正直、同一人物とは思えない。事故前のその人は、女性らしくほほえんでいた。長い黒髪がよく似合っていた。そして、あの事故。脳にひどい損傷を受けた。救助した人も性別すらわかる状態ではなかったと、救助活動をしていたときの様子を語っていた。人口呼吸をして一命を取り留めた。しばらく意識不明の状態が続き、そして意識が戻った。母親が常に傍らにいる。現在は車いす。髪は短く刈られ、性別を正確に言い当てるのが難しい。目は何を追っているのだろう。よくわからない。身体は、不自然に曲がっており、自由に動かせるところはごくわずかなのではないだろうか。その彼女が、「なんで?」と言うらしい。なにを、「なんで?」なんだろうな。彼女のその言葉の先を探そうとすると、胸が詰まる思いがする。あの映像をみたとき、正直、「不幸」をみた思いがした。そして、一人の人間の存在に「不幸」という言葉を当てはめたことに罪悪感を覚えた。たぶんそれはこういうことだ。私は、その女性に自分を重ね合わせたのだ。「そうなりたくない」と思った。それははっきりと、嫌悪の感情だ。「私にそうした現実が訪れてほしくない」という思い。そして、彼女である私は感じるのだ。私の生に閉じこめられた現実に対して、そんな視線を向ける人間がいることを。そして、その視線に、なんともいえない冷たさを感じるのだ。許せない、とか、我慢ならない、と思える元気があればよいが、そうでもなければ、やはりその視線に打ちのめされてしまう。なんで、私は生きてしまったのだろう?と思ってしまうかも知れない。私が私に向けてしまった視線に対する罪悪感だ。ということと、接続する話しとして、なんでいつのまにか、こうして、「障害」というものにコミットしていたのか、ということだ。最初は、嫌悪からだった、ということを、今になって、はっきり思い出したようなかんじだ。その当時は、「現実に向き合う、直視する勇気」が持てない、と思っていたように思う。メカニズムは、たぶん一緒だ。となると、これまで私が動かされてきたのは、まさに、どうにもならない嫌悪という感情、ということになる。それは、そんな感情で見られたくない、と思う私をいかに救い出すかという作業だったとも言い換えられると思う。「不幸」という概念が、私(あなた)からみいだされてしまうことの不条理感にどうやって対抗していくか。なぜ嫌悪とともに不幸が生じ、私は私を見なかったことにしてしまうのか。なかったことにしてしまうのか。老いに対しても、死に対しても、同じように思った。逆に言えば、人の好悪の感情によって「不幸」「幸福」がひとりでに構築されてしまうことがあるわけで、それゆえに、不幸/幸福という概念をほとんどあてにできなくなってしまった。で、なんでこんなことを書いたかと言うと、立岩先生のhttp://www.arsvi.com/0w/ts02/2005025.htmという文章を読んだからで、最初は、人の生死に人の好悪の感情がそれほど大きくは関係しないっしょ、と思っていたのだが、そうではなくて、一番根っこの部分だなぁと、いろいろ思い出して素朴に思ったということ、ただ自分を振り返れば、そこが世界観・倫理観の育成の土壌にもなったりするのだなぁとも。「感情」を基点にいろいろ探ってくと複雑怪奇に枝分かれしてておもしろいんだろうなぁ。