そして今日も障害受容インタビュー

今日は、養成校時代の友人にインタビュー。彼女は、長らくパーキンソンなどの神経難病に関わっており、「障害受容」という言葉には否定的、というか、全然使わない、ということだったので、ぜひとも話しを聴いてみたいと思い、お伺わさせていただいた。彼女との話から見えてきたことはとても大きかったような気がする。今度のOT学会で報告しようかと考えていることとの関連が垣間見えたようなかんじ。とりあえず、学会にエントリーしようとしている抄録をのっけとこう。いいのかな?別に問題ないよね。

タイトル:作業を介した関わりにおけるケア的要素の抽出と治療構造におけるその位置定めのための試論 -神田橋條治の「抱え環境」理論の援用-

抄録:【問題関心の所在】本稿の目的は「作業を介した関わり」におけるケア的要素の抽出と治療構造における位置定めのための試論を展開すること.その理由は3つ.1:その方が臨床実感をうまく言語化できると考えた,2:それにより,より臨床実感に即した治療構造を明確化できると考えた,3:そうすることで,治療と称したときに持つ「何かが可能になる」に過度に向かいがちな志向性が有する危険を回避・沈静化できるのではないかと考えた,である.そこで本稿では,神田橋條治の「抱え環境」理論1)における「ケアと治療の関係」についての仮説的命題を用い,作業療法における治療構造についての再構成を試みた.【ケアと「抱え環境」の整合性】本稿では,「ケア」を,『「受け止め手」の存在による「ある」自分に対する「安心感」「自己信頼感」の経験』と定義する2).「抱え環境」とは,「いのちのわがまま性」を保証し,「意欲」「能力」「自然治癒力」を引き出す「保護」「安住」の環境と表現される.「抱え環境」理論の特徴は2点.1:「抱え環境」が治療的介入を助ける/「抱え環境」がなければ治療的介入は失敗に終わるというように,「抱え環境」/治療の関係性についての仮説的命題を提示している,2:命題の論理構造の前提として「抱え環境」と治療の分節化・順位づけが行なわれている,である.そして上記の「ケア」の定義に照らせば,「抱え環境」は「ケア」と称すことが可能な概念であると考える.【作業を介した関わりの持つ2つのケア性】作業を介した関わりには,A作業を介した関係性に生まれるケア性,B作業そのものが持つケア性が含まれると考える3).Aは,例えば,「作業の適応・修正や段階づけの配慮」「間身体性を通した相手の気持ちの感受,気持ちの伝達」「治療者が作業に関わる物品を大切に扱うことによりその人自身が大切に扱われている感覚」等.Bは,例えば,「作業活動にともなう身体感覚」「方向喪失感の軌道修正」「リズム動作から得られる安らぎ」「没我性」「「私が在る」という感覚の支え」「納得のゆく実感」等.A,Bの連関としては,AがBを引き出すと考える.【作業療法におけるケア的要素の位置定め】無論「作業を介した関わり」を治療的要素のみに還元することは可能であり,それに対する批判がなされている4).「抱え環境」理論によれば,ケア的介入と治療的介入は主従の関係であり,ケア的介入を欠いた治療的介入のみでは外傷体験を生むという.「作業を介した関わり」をケア的要素,治療的要素に分解し,それらを主従関係におき,その「ケア性」にしっかりと着目することで,そうした危険を回避できるのではないか.また,こうした視点のさらなる追求により「効果・効用主義」に還元されない作業療法の存在可能性を提示できると考える.【引用・参考文献】学会報告時に提示する.

まっ、早い話、「治療」という行為の際にも「ケア」の視点を忘れないようにしたいと思います、ってただそれだけのことなのだが、彼女曰く、患者さんがだんだん進行していって、できることがなくなってくると、それまでは、その都度生じた問題の解決策を考え、できるようになる方法をあみだすが、いよいよそれも限界となってくると、その人が安心できる、とか、少しでも楽に過ごせる、とか、そんなところにしか関われないし、そんなことでも必要とされるなら、なんでもやってあげたい、と言うのだ。これはまさに「ケア」の視点。で、そんな状態になったときに、障害受容もへったくれもない、というのだ。たしかにその通りだ。障害受容という言葉はまったく似つかわしくない言葉だ。三好春樹芹沢俊介の対談で、人の一生の流れが「ある」ー「する」ー「ある」と表現されていたが、どうも障害受容という言葉は「する」に連関するらしい。「ある」の次元の支援というのは、まさに「ケア」でしかなく、この段階で、障害受容という言葉は、もうもうやめましょう、というかんじだ。それこそ陳腐に響く。そういう意味では、障害受容は「する」に居心地のよい言葉ということだ。「能力」に関わるとかんじたのは、つまり、こういうことだろう。だから「能力」をめぐる規範とつよく共鳴してくるんだろう。障害カテゴリーに能力差別が存在しているのは歴然とした事実だ。「障害受容」という言葉は、そうした差別化に加担した言葉ということなんだと思う。それが専門家が作った言葉だから、やはりその功罪は大きい。いまでもそれが綿々と生き続けているところもあるし、名残もある。それは多くのセラピストにとって、臨床実感とはそぐわなくなってきていることも一方の事実だ。それはたぶん、「ケア的関わり」が重要視されるようになったこととパラレルなのではないかと思う。