今日も障害受容インタビュー

今日は、高崎へ。K病院のOTさんに話しを聞いてきた。明日は神戸。先立つものは金。こういうの、研究費で落ちないのかなぁ。まいいや。今日のOTさんは、臨床3〜4年程度ということで、フレッシュな印象。なんて言ってしまうと、自分はもう歳ということになってしまう。こないだ実習生さんが来たときにもつくづく思ったが、「若い」というのはもうそれだけで、宝なのだ。「若い」ときの純粋な目の輝きって本当に素晴らしいと思う。年取った人間は、そのことを本人たちにもっと伝えないといけない、と20代前半の子たちと話していると、最近心底思う。ほら、もうおばさんだ。若いときの時間は、とても大切だ。年取った人間は、なんでそういうとても肝心で、単純なことを言わないんだろう。どうでもいいことばっかり言って、すぐに「若さ」をつぶそうとする。「若さ」に嫉妬してるだけだろう。貴方の夢や希望は必ず叶えられるから、ってほんとでもっと大切なことを言えばいいじゃん。年取った人間が言うべきことってそういうことなんじゃないのかなって思う。と、話しが逸れてしまったが、そこの病院は、いわゆる療養型病院で、患者さんは、高齢で、慢性期の人がほとんどだそうだ。だから在宅復帰率も極めて低い。「障害受容」という言葉はほとんどまったく用いていないということだ。同僚との話の中ででることはあるが、その時にも、障害受容という言葉を用いているわけではないとのこと。ただ、タイトルをつけるとしたら「障害受容」の話しかねぇ、というかんじだそうだ。「障害受容」については、学校でさらっと段階説などを習ったが、臨床での違和感がある(「枠にはめようとしているかんじ、そんな枠とっぱらってはなしをしたいのよ!」と言っていたのが印象的)ということで、OT学会での私の報告にも関心を持っていただけたようだ。その時に名刺を落としていってくださったので、こうしてインタビューさせていただけたわけだ。というわけで、「障害受容」という言葉に対してある程度問題意識がある人だったということになるんだと思う。同僚の方も経験年数3年程度ということで、若いOTさん2人でがんばっている。その方も、私の書いたもの読んでくださったそうで、ありがたいことだ。で、ま、二人とも「障害受容」疑問派、というかんじ。率直に言って、若い臨床家世代の息吹のようなものが感じられた。若い世代は動き始めている。私もがんばるけど、みんなもがんばってなんか言ってってね、と思わず年寄りじみたことを言ってしまった。で、臨床で「障害受容」という言葉をあてはめたくなるような事象について伺った。結構、進行性の難病の方(脳腫瘍、ALS等)に関わることも多いということで、これまでできたことが、徐々にできなくなっていってしまう。本人には告知を行っていない。家族は本人を在宅に引き取ることができないという。セラピストとしては、本人の障害進行を家族に理解してもらい、本人を在宅に返せたらよいのに、と思う。そこで、「家族」に「障害受容」という言葉が適用されることになる。家族・親の障害受容という言説は多い。私は、これは非常にやばい言説だと思う。リハの業界だけを見ても、きちんと調べてないからなんだが、1つには、「家族」と「本人」の位置を明確に区別できていない。そしてまた/それゆえに、「障害受容」という言葉が家族にも適用されてしまう。つまり、家族と本人は運命共同体として、勝手にひとくくりにしてしまっているのだ。そして、家族の障害受容というのは、極論してしまえば、家族が障害を有する家族の一員の面倒をみろ、それが当たり前という押しつけを持ってると思う。なんで感情の問題が、規範の問題にすり替わってしまうんだろう。そこがよくわからない。そういう規範・押しつけがあるから、かえって、家族・本人のポリティクスは、弱い位置に置かれる本人を家族から引き離す方向性に向かってしまうのではないか。介護の社会的分有などというが、今日のお話で、在宅復帰率は、1割程度。もちろん、虐待とはいかないまでも、こんな家族となら、施設の方が幸せかも、という事例もあるかもしれない。でも、本人の障害の重さやそこから派生する様々な負担感が、本人と家族とを引き離す要因となってしまうことはあってはならない。障害は、人と人との関係を浸蝕するような位置に置かれるべきものではないからだ。