昨日も障害受容インタビュー

昨日は、新神戸へ。あー、なんだかそろそろ疲労困憊だ。今日の仕事は辛かった。こうやって辛い感じがしてくると、「なんで私こんなことやってんだろ?」と思えてくる。「もいいよ、どうでも」って気になる。これは正当な感覚だ。そうそう。基本的にはどうでもいいことなのだよ。どうでもいいことやっている、その理解が正解なのだ。というわけで、新神戸駅。いいとこだったな。駅ついて、正面出口でたとたん、ふっと、とてもいい匂いがした。木のいい香りだ。見渡す限り木などないので、気のせいか、と思いつつ、しばらく歩いて後ろ振り向いたら、な、なんと!、山、なのね。ロープウェイもあるんだ。観光地じゃん。インタビューのお相手のOさんが、その先に有馬温泉もありますよ、お薦めです、と教えてくれた。有馬温泉って、こんなところにあるんだ。ほー。あそびたいなぁー、であった。さて、インタビューでのこと。これが肝心。Oさんは精神科OT3年目。OT学会の時に、たしか、一番に、私のポスターのところに来てくださった方だ。顔を見て、思い出した。最初の人だったから、うれしくて、なんかやけに興奮してべらべらとしゃべっちまった。Oさんいわく、「なんか一生懸命話されていたから、思いがおありになるんだなと思いました」。はいはい、そういうことです。それにつけても、関心を持ってくださったということだから、「障害受容」という言葉について一物?あったんではないかということで、その辺りからお話を伺わせていただいた。精神科というのは、私はよく知らない領域でもあり、興味を持ってお話を伺った。職場には、たしか7人程度OTの方がいらっしゃるということであったが、長くて経験年数4年程度ということだから、やはり若い人たちでやっている、ということになる。で、職場では、同職種間、あるい他職種の間でも、「障害受容」という言葉は用いられていない、ということであった。Oさん的には、学校で、「障害受容」という言葉は習っており、もちろん知っている。やはり、「段階説」が印象深いようであった。「障害受容」というと「段階説」である。そういえば、最近出版されたんだと思うが、「リハビリテーション医学大事典」?、そんな名前の用語解説集がでており、上田敏大川弥生編だったが、いまだに、「障害受容」を引くと、「段階説」、「価値転換論」である。もういい加減やめた方がいいと思う。で、Oさん曰く、「受容」というと、「完璧」を目指すようなかんじがして、違和感があるということだった。あと「固い」かんじがするとも言っていた。というわけで、日常使う言葉としては、なんとなく使いずらい言葉なので、使用は控えている、というか、その言葉ではなんとなく違う、とのことであった。なんだけど、「障害受容」という言葉は知ってるわけで、その言葉について、なんらかのイメージ・意味生成はされてるんではないか、ということで、この言葉をあてはめたくなるような、臨床での出来事ってなんかない?って伺ったところ、1つは、「能力」に関すること、つまり、「ちょっとこれは無理だろ」ってセラピストが判断したときに、「現実検討」ができていない、というような言い方をする、と。もう1つは、セラピストが期待する方向にその人が向かず、障害にこだわっている状態のときに、そんな言葉をあてはめたくなると。でもそれらについては、こちらの一方的な押しつけなのではないか、という葛藤も生じる、ということであった。ここで気になったのが、「能力」。やっぱ規範の押しつけなんだよね。うーん。なんて言ったらいいんだ?てか、なんて言ったら言えたことになるんだ?だから「適応」概念とも密に関係するんだよね。結局、私の言いたいことというのは、こんなところに集約してくんだよな。あーきもちわるい。言葉がみつからない。「できないこと」を「受け入れる」。あそっか、私はこないだかいた論文で、「障害受容」のことも問題にしてたんだ。ありゃ「障害受容」の論文でもあるんだ。え?私、もしかして、堂々めぐりしてる?ちょっとこれは検討課題というこって。あっそうそう、それで、Oさんは、インタビュー後、お送りした私が書いたものをわざわざ持ってきてくださり、熱心に、「ここがわかりませんした」とかおっしゃってくださるものだから、またまた鼻の穴ふくらませて一生懸命説明してしまったわけだが、Oさんもなんか言ってってくれません?と言ったら、「私、3月でOTやめて、ギター演奏家目指すんです」と。「はっ?」。大げさに言うなら、一瞬腰抜けたが、そういう人生もありよね、ということで、「いつでも、ぜひ、うちの施設で演奏したって!」とお願いした。彼女の演奏を聴ける日が、楽しみである。