障害学研究会、遠山さんの報告

ああ、思えば今日は、ナマ遠山さんを見ることを(ほとんどすべての)目的に、研究会に行ったのだった。目的達成できて、満足。これまで、メールやお手紙でやりとりをさせていただいたことはあったが、そこで、私の「遠山像」は肥大しすぎるほど肥大し、字が美しい、思考がクリアカットで美しい、・・・もろもろの印象から、ま、たぶん、一番近いところで、ベルサイユのバラのマリーアントワネット状態だった。妄想というもんはおそろしい。ベルサイユのバラはマンガだろよ。いけません。そう、実際お目にかかった遠山さんは、人間だった。こうやっていっつも間違える。思えば、先端研の入試(面接)のときには、立岩先生とかも本でしか見たことがなかったから、で、なんかわけわからんことが書かれてあるもんだから、日本語が通じるかどうか、が一番の心配のタネだったことを思い出す。
で、今回の研究会の話。遠山さんのご報告は、社会政策研究のを、さらに精緻化したような格好だった(たしか、たぶん)。障害者の「能力の習得・評価を妨げる要因」として、さらに、習得機会の制限、習得率の制限、評価における障壁、とし、それらは「障害」に起因しており、本人の責任部分ではないとしていた。それと「障害」によらない「努力」を分けているところが遠山論の特徴。で、「努力」は本人の責任部分であると。批判は多々あったようにも思うが、しかしたしかにこうして「責任の有無」を基準線として「努力」と「障害」を切り離したモデルが提示されたことにより、従来よりあった雇用制度の中身が(紙のうえではあるけれども)妥当性のあるものとして再定義されたことに大きな意義があったと思う。それは差別禁止の枠を(適生)に拡げ、割当から生じる健常者の不当感を解消する。しかし、それを実際場面で生かすとなると・・・、である。たぶん、批判の大半はそこに集中していたのではないか。1つは、やはり、「障害」と「努力」を切り離せるのか、という問題で、ただ、同じ条件の障害者同士でなら可能かもしれない、そうした事態なら、そこを雇用する/しないの正当化の根拠として実際切り分けられるかもしれない、ということだ。もう1つは、100の能力を持つ人と、50の能力を持つ人がいたとき、市場では、100対0になってしまう可能性があるということだ。それが努力差50ではないとしても、やはり雇用されない可能性がでてしまう。それをどうするか。あとは、たとえば、じゃあ、遠山さんが実際に提示された新定義を、実際にはどう運用するのかという問題、それと、市場は、いろんな仕事、能力が期待されていて、一様な能力尺度では到底測れないわけで、そういう市場との距離をどう埋めるかという問題。(そこらへんが立岩コメント)
なんだかこの領域は、ほんとにあたまがごちゃごちゃしてくる。しばし離れていたので、復活してみたい気が少ししてきた。しかし今日は朝からくしゃみと鼻水に苦しめられ、研究会に着いたころにはくたびれ果ててしまっていたのが、急場で買った薬と栄養ドリンクが効果があったのか、いろんな方のお話からエネルギーをいただいたのか、飲み会も終わって帰宅した22:30頃には、そんな症状はどこかにふっとんでいた。てかたぶん、瀬山さんとか、寺本さんとか、DPIの金さんとかにもお会いできたりして、私のミーハー魂がウホウホだったんだね。やっぱり今度から真剣にサイン帳をもちあるこうかしらん。