とってもすごい。言葉になにかが宿ってる。

http://d.hatena.ne.jp/fugu1/20050724

小泉義之先生の生命論史のレポートの内容だったのだが、
それを書いたときにふとよぎった気分について
小泉先生に質問させていただいたところ、下のようなお答えをいただいた。
先生の許可を得て、残させていただくことにしました。


Q:
>この際ですので、先生に思い切って
>質問をさせていただきたいのですが
>私自身、ああいう「死」に関する文章を
>書こうとすると、一瞬、こわくなってしまい、
>躊躇してしまうものがあるのです。
>あれも、レポートという課題があって
>救われたようなかんじですが
>単に日記(ブログ)に、というだけだったら、
>しばらく後ろめたいような気持ちを
>引きずっていたようなかんじです。
>その理由が、自分でもよくわからないのですが、
>先生はそのような気分?にとらわれることはないのでしょうか。
>それとも、どのようにか解消されているのでしょうか。

A:
僕の場合は簡単で、いかなる状況・条件であっても、殺すことはない、死なすことはない、生きることはよい、と決めているから、躊躇はありません。少なくとも、書く立場においては、ありません。生活の場面では「躊躇」「気分」を感じることはありますが、それはその場で適当に、いい加減にやっていけばいいと思ってます。そして、各人がいい加減にやったところで、研究者や官僚が騒ぐのとは違って、社会はそんなに悪くならないと思ってます。そこをうまく書ければとは思っていますが。ですから、話はやや飛びますが、症例研究・症例報告は許し難いといつも思ってます。仮に書くなら、あくまで学ぶ立場で、教えを乞う立場で書くべきです。