老いること

先日、パーキンソン病の75歳の女性Aさんと、脳梗塞による半身麻痺の障害を持つ60歳前の男性Bさんと調理実習をした。Bさんは、OTの時には、まあとにかく、必ず1回は涙ぐむ。最初は「死んでればよかった」とほんとに悔しそうに言い、そのときは、返す言葉が見つからなかった。スキもなかった。その後も、涙目になりながら、でもちょっと笑顔見せて、「あの時死んでればなぁ〜」ということはたびたび。言ってることの重さは相変わらずだが、だんだん少し口を挟む余地もできてきたかんじだったので「死んだら終わりなんだよ〜」「生きてるからそんなことも言えるんだよ」とか、勝手気ままに、こっちも、かんじたままを言うようになった。で、調理実習。Bさんは、基本的に一人暮らしになってしまうので、片手動作訓練と料理メニューを増やす意味も込めて実施した。とにかく、退所後の生活が不安でならないのだ。安心のためにも行った。作っている最中というのは、いろいろ話ながら作るので、障害を持つ身同士でしか成立しえない、あるいは、老いるもの同士でしか成り立ち得ない会話というのがぼつぼつでてくる。このときも、つくづく『老いること』をかんじさせる会話があった。どちらも老いとともに自由にならない身体を享受するようになった。Aさんもやっぱり「死にたい」と思うんだと。「でも、簡単に死ねないのよね。だからやっぱり、生きるしかないのよ」と言う。Bさんはそれに対して、「誰か(医者が)殺してくんないかなぁ」「(俺を生かした)医療が悪いんだ」・・・「ほんとに、死ねねぇんだな」・・・と。
つくづくそんな会話を聴いてて思ったのは、老いるというのは、生きることがどうしようもなくしんどくなることで、死が今の私なんかよりずっと近くにあって、ある意味、死からの遡った生を生きるってことなんだな、と。なんだろうなぁ。なんかやっぱり、生きるしんどさを享受しながら生きるということを受肉しているがゆえに、泣けて泣けて、なんだよね。ほんとに生はしんどい。でも、死ぬまで生き続けるんだよね。そうやって、泣いて泣いて、生き続けるんだよね。と、Bさんのこと思い出したら、こっちが泣けてきた。


で、そんなことを書いてて思い出すのが、立岩先生のALS本にでてきた川口武久さんのことで、なぜ彼が「自然な死」を選んだのか、ということだ。わたしは、正直、この本を読んだとき、「自然な死」ってツヨイな、と思った。で、そのつよさと上の話がつながってくるような気がするのだ。それは、しんどいから死ねてよかったっていうことではなくて、なんていうか、潮の満ち引きのごとく訪れる死というのは、自分の肉体の限界のなかの無限性というのに、地面が切り裂かれるがごとく導かれる瞬間なんじゃないかな。それは、これまでの受肉してきた生がことごとく祝福を受ける/受けてしまう瞬間で、生はそこに収束していくことで、これまで得たことのないような安らぎを得るというような。だから川口さんは「自然な死」を選んだのではないか。つまり自分の生をことごとく肯定的なものとして昇天化する力強い通過儀礼のために。?そんな、ほんとは言ってしまっては身も蓋もないのかもしれないことが、ちょっとよぎっちゃうんだよね。なんとなく、とほほ、な気分。