出典はわからないのだが、ある方より、拙著の所感としてお送りいただいた論文。


加藤典洋 「関係の原的負荷−−2008、「親殺し」の文学」


沢木耕太郎の『血の味』、岩明均の漫画『寄生獣』、村上春樹の『海辺のカフカ』を紹介しながら、現代の文学のモチーフとして、親子関係に宿る「原的負荷」を清算、あるいは乗り越えるための「親殺し」がテーマになっていることが言われる。


志賀直哉の『和解』の時代に語られる、親の愛の無償さとは異なる「(親という存在に与えられる)重さ・負担」に抗うことの困難からくる自分であるためのエネルギーの枯渇から自分をいかに救い出すかが、それらに共通して扱われているテーマだというのだ。


論文の結論はこうだ。「その答えは・・自分という一個が複数のとき、また相手という一個が複数のとき、そこに単一の重層形象が結像できる。それは主観の中に存立する間主観的な存在である。わたし達は、このような場所から、もう一度、考えることができる」(p79)


寄生獣』において、殺すべき母親は、寄生獣となっており、すでに母親ではなかった。新一は、寄生獣となった母親を殺したのだった。そして、新一の胸に穴をあけた母親は寄生獣となった母親だったが、その穴をふさぐには「(母親に)会って話してなにもかも すっきりさせなければならない」と占い師に言われるも、母親はもういない。この話の最後は、人間との間に実験的に子供を作り、育てる寄生獣が新一の母の姿を真似(一度は殺された母親の二重化)、警官に狙撃された時に、子供を新一に託すという場面である。


話は、単一の主人公性にはおさまらず、むしろ輻輳的な展開のなかに単一性は陥没している。それが「原的負荷」の「重さ」を表現しているようでもあるし、「救い」(のための出会い)にしても、単一の重層性において、まるで母親は幻影のように立ち現われつつも、くっきりとした輪郭を宿すという現れ方において、(新一と寄生獣の母親の似姿という)双方向的な向かい方を示している。


「原的負荷」を例えば「(先天的な)障害」と読み変えてしまうのは短絡すぎるが、枯渇からの救いは、重層的な個人と相手の磁場のなかにあると考えるのはヒントになるのかもしれない。