『メルロ・ポンティ』(熊野純彦著)

平易に書かれてあるが、内容的には哲学やメルロ・ポンティの思索の本質が掬いあげられている印象が持てるもので、良い本だと思った。「哲学者は詩人でなければならないか」という疑問から始まって、「経験にたちもどること」(第1章)「身体へ立ちかえること」(第2章)「世界を取り戻すこと」(第3章)を通してメルロ・ポンティの思想をたどりながら、最後に当初の回答を導きだそうとする構成。詩とは何か、哲学とは何かというそもそもの疑問が湧き出てくるが、答えのない問いを逡巡することをめぐって経験に言葉をのせることが詩の営み、哲学の営みの似たところであり、それゆえに哲学も詩的あるということと解釈。だけど最後に、詩と哲学の徹底的な違いも書かれてあって、それは、詩の言葉にこめられた時間の永遠性に対して、哲学はいつまでもどこまでも時間のなかで永遠に追い付こうとする点だという。なるほど・・。この本では、主に『知覚の現象学』がメルロ・ポンティの思考をたどるテキストとして採用されている。「経験にたちもどること」のなかで、次のような面白い記述がある。

「(知覚の経験の:追記)その意味は、いわゆる「客観的」な世界のうちでおなじ語が有している意味とはべつのものである。「客観的世界」なるものはそして、世界から経験の次元を引き算したものであるにすぎない。客観的世界はつまり、あらかじめ経験不可能なものだ」36

「世界はいつでも比喩的なかたちで与えられているといってもよい。比喩としての世界のポエジーが、世界を語ることばがときに詩となることの条件となっている」41

「世界がうちにはらんでいる相貌が、対象のそれぞれに意味を配分している」45

「視覚はすでにある意味によって住まわれているのであり、この意味が視覚に対して、世界の風景のなかで私たちの存在にひとつの機能を与えているのである。[略]感覚するとは、性質に生命的な価値を付与することであり、性質をまず、私たちに対しての意味、それが私たちの身体である、重みある塊にとっての意味のなかでとられること(メルロ・ポンティ)」46-47

「身体という存在の次元へと回帰すること[略]知覚の現象学は、身体の現象学としても展開されなければ」47

つまり、世界はそれを身体から浴びるその人の次元によってこそ構成されているわけで、その次元から世界を捉える経験を記述したいと思うなら、身体の次元に回帰するしかないということである。第3章では、どのようにメルロ・ポンティが「身体にたちかえること」をしたのかが書かれてある。第3章で印象深かった記述は次のようなもの。

「私が家のなかを自由に動きまわることができるのは、私がさまざまな場所相互の関係、場所と場所の距離方向を「足で」「手で」覚えており、身につけているからだ。家と私の身体のあいだに「志向の糸」が無数に張り巡らされて、家はからだになじんでいる」77

「「奥行きは私の視線のもとで生まれる。私の視線はなにか或るものを見ようとこころみるからである。」私の視線がなにかに向かっていることこそが、奥行きの知覚を生むのだ」89

「奥行きの知覚とは、単純にいえば、ものがそこに見えるという経験である。あるいは、より正確に語るとするならば、ものがそこにあることをめぐる経験のことである。奥行きとは世界の厚みの、「」(『眼と精神』)の経験である。世界が世界として存在し、しかも私に対してひろがっていることの経験」90

そして、触れるものと触れられるもの、見るものと見られるものなど両義性と可塑性をめぐる「感覚の反転」のうちに「一種の反省」の原型があるとする。そして、哲学とは「哲学はいつまでもどこまでも時間のなかで永遠に追い付こうと」する完結のない、不断の問いの繰り返しだと。