今日は

熊谷晋一郎さん×大澤真幸さんによる「痛みの哲学」の対談を聴きに行った。新宿の朝日カルチャーセンターまで。浜松から高速バスで日帰り。バスに乗ってる時間が正味10時間程度でお尻が痛くなったけど、その間、安部彰さんの『連帯の挨拶−ローティと希望と思想』を読んで過ごした。

連帯の挨拶―ローティと希望の思想

連帯の挨拶―ローティと希望の思想

独特の語り口なのだが、とにかく読みやすい。著者の言葉の選び方、連ね方にまず面白さを感じるので、ついつい引っ張られて読まされてしまう感じである。

で、個性的な感性を持つ著者が惹かれるローティってどんな考えを持つどんな人なのだろう?、と関心が本の進行に乗っていくのである。

さて、ローティは少年時代、「野生の蘭」に魅いる、もっというと、「野生の蘭が非常に重要な意味を持つを確信する」(p35)という風変わりな性向を持っていて、しかし、それが(それとの煩悶が)ローティを「正義」とか「人権」という発意に導いたのだそう。なんだか面白い。詳しくは本をご覧ください。

で、そのローティの「正義」「人権」の線引きとなるのが「残酷さの回避」、その達成が「アイロニー」にゆだねられる。(すごく単純化して説明してしまってるなぁ。間違っちゃてるかなぁ。)「残酷さ」の内実にはいろいろ議論があるようで、それは本書の4章あたりで様々な論者の論が詳しく紹介されています。「アイロニー」は私的に解釈してしまうと、偶然性や他者性に対する感度というか、そうした自体を自分と等身大のものとして受け止めきれるかどうか、といったことのように思った。もっと単純に言ってしまうと、他者の「残酷な状態」に対する感性?(゜-゜)あ、本には「共感」とあった。「他者の受苦に対する共感」。

それをさらに言うなら、ローティの正義の構想は、人の関わりの愛着や親密さというような「距離」によって他者を大事にする感覚や行動には温度差があるということの自然性を前提にすることで、「非人称の連帯」の承認の脆さ、危うさを突いているということ。それがローティ論の学的な挑発の1つらしい。

著者は、ローティの「距離」と「好悪」の正義論の検証のために「ケアの倫理」を見る。なぜなら「ケアの倫理」はまさに身近な他者へのケアを容認する「えこひいきな倫理」であるからだ。そして、ヴォパリル、ヒュームの論を経由して最終的な結論へといたる。それはこうだ。

「他者が被っている「現実」−「受苦」−こそが、共感による連帯の鍵」(p227)

つまり、共感の度合いは、「距離」に存在するのではなく、「現実性/実際性の程度とそれがもたらす快不快の強度に比例する」(p228)と。著者は、それは、「信の作用の真偽」こそが連帯の賭金となる次元を共有するものであり、わたしへと/あなたへとひらいていく道程だと言っている。