現代思想2010年10月号 特集=臨床現象学 精神医学・リハビリテーション・看護ケア

現代思想2010年10月号 特集=臨床現象学 精神医学・リハビリテーション・看護ケア

  • 作者: 木村 敏,村上 靖彦,宮本 省三,河本 英夫,西村 ユミ,松葉 祥一,熊谷晋一郎,綾屋紗月
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2010/09/27
  • メディア: ムック
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統合失調症失調症と自閉症現象学」と題して、木村敏村上靖彦の対談あり、面白かった。以下、メモ書き。

「木村:患者という他者の他者性を確保しつつ、しかし患者の意識や存在の様態を私のこととして現象学的な直観を行なうことが可能なのはどのようにしてなのでしょうか」41

「木村:「自らを示しているものをそれ自身において自らを示している通りに見えるようにする」ということですね。直観診断というのは要するにそれだろうと思います」41

「村上:目には見えてはいないけれどそこに動いているものを見させる、というのが現象学の働き」42

「木村:他者の問題なのにわれわれ精神科医の一人称的な直観でもってそれに関われる。そういう構造になっているのではないでしょうか」42

「木村:フッサールは本当に少ししか読んでませんが、これでは直観診断などの問題に届きそうもない」43

「村上:巻き込みと距離、その両方があったときに現象学が可能になるのではないかと思っています。逆に、自分自身を題材にする場合ですら、ある意味で自分を「他者化」出来ない限り「隠れた構造」が見えてこないので、「あらゆる現象学は他者についての現象学である」と言いたい誘惑に駆られます。現象学における「超越論的」とは、この「巻き込みと距離」を利用して背後の生成プロセスを見て取る仕組みのことではないか」43

「木村:生命を研究しようとする者はとりあえず小文字の生命を研究しようとするわけです。つまり個々の具体的な生命物質の生命活動ですね。しかしその研究は「大文字の生命と関わらなければいけない」とヴァイツゼカー言う」44

「木村:ヴァイツゼカーが彼の自伝(『出会いと決断』)で「祈り」についてとてもよいことを書いています。祈りというのは超越者としての神様のようなものに対してのものではなく、相手の全くないものなのだ、というのです。自分ひとりで、相手なしに、ただひたすら祈るだけなんてなんだと。私も何となくそうだと思います。そういう祈りが可能になる場、それはやばり大文字の生命なのではないでしょうか。私はこの頃、スピノザをいっぺんきちんと勉強しようかと考えているところなんです。「神即自然」というやつですね。無神論的汎神論といいましょうか。私は根本には自然ということを考えますから。根源的自然性、つまり「おのずから」の「から」、「自然(じねん」)」の「自(から)」ということですが、これが私にとっては生命の別名ですし「能産的自然」としての神の別名でもある」46

「木村:個人のビオスと集団のゾーエーが、患者と呼ばれる当事者の生きていく場所で、自然にスムーズに繋がっていない」46

「村上:おそらく重たい自閉症のお子さんから自閉度の強いアスペルガーの方たちまで、感覚というか感性的な直観が優位に立つかたちで自己を作り上げているということをしているのではないか」47

「村上:自閉症の方たちには未来という感覚がなかったり・・[略]木村:(筆者追記:統合失調症の方が)そもそもあれだけ未来に集中するのは未来が薄いからでしょう。」51

「村上:フッサールのことを思い出したのですが、彼は何千頁もの時間論を書いていますが・・。
木村:でも未来がない。」51

「木村:「絶対の他」と西田が言っているものが文字通り他性を帯びてくると、自己が自己として成立するはずの根底に他性があるようになる。そして相手の根底にもやはり他性がある。他性どおしで繋がっているということで、そのようになるのではないでしょうか」52

「木村:そもそも病気の症状というものは一般的に言って、身体医学の場合でもそうですが、病気の自己治癒にとって必要なものです。それをとるということは、本当はしてはいけないことなんです。[略]私が治療論を書かない理由には、そういうこともあるのですね。治療論というのはどうやったら暴れている患者を大人しくさせることができるかとか、妄想をどやったらとることができるかとか、そういう話ばかりでしょう。」53

●「村上:現象学が誕生して他者論のほうに発展した」54

●「村上:患者さんの体験過程に内側からシンクロする現象学的探求と、治療行為としての聴くことのあいだには重なる部分があるように思われます。
木村:聴くというのは、わかってあげるということですよね。自分のこととして聴くというか。聴くことができているときには、もう通低してしまっているんです。「それ自身を示してくるものを、そのまま見えるようにする」という現象学を可能にする場が、精神医学の臨床では、聴くことだと言えないでしょうか」55

「木村:私はやはり生命の問題まで掘り下げて、個人の心理を語ることを誰かが考えなければいけないと思っています。アガンペンは「ゾーエー」という言葉の使い方など私と全く違うのですが、しかし彼などは可能性があるというか、期待はしています。」57