「幸せだった」

叔母が10月27日の0時45分頃亡くなった。私はそれを叔母の病院に向かう大井町線の最終電車の中でなんとなく感じた。叔母の身体が重力からふっと解き放たれていて、軽くなって、広がって行く感じがしたからだ。それとともに物語を閉じるかのような「幸せだった」という言葉が届けられた。私はババはもうこの世にいないらしいと直感したが、半信半疑だった。その数分後に、みよこから、「今どこにいるの?・・・間に合わなくってね・・・」と携帯に電話があった。
叔母の闘病生活は決して短いものではなかった。83歳の時だから今から4年前。「もういいよ・・」と電話した母親や私に告げ、2日後に自分のベットであおむけになったまま昏睡状態だった。後で調べたところ左の中大脳動脈閉塞による大脳梗塞だった。そのままベットで寝たままなら、楽に死んでいたかもしれない。でも、「もういいよ・・」とすべてに絶望を感じながら死んでほしくなかった。ここで死を迎えさせるわけにいかないと思った。慌てて救急車を呼んで病院に救急搬送した。
そこから叔母の闘病生活が始まった。しゃべれる頃は「帰りたい」を連発していたけど、結局、生きているうちに自宅に戻してあげられなかった。病院のベットを離れることはできなかった。
3回の転院をしたが、Y病院は最悪だった。手をかまれるからと口腔ケアもろくにしてもらえず、たぶん、下の方のケアもきちんとしてもらえなくて、耳下腺炎を起こしたり、誤嚥性肺炎を起こしたり、おまけに腎盂炎も起こしたりして、熱発を繰り返していた。このままでは死んでしまう・・・と思っていたら、とうとう再発した。主治医はご高齢のせいにして、心臓マッサージは行うが肋骨を折って悲惨な姿になるかもしれないとおどしやがって、翌日朝にみよこと母親と3人で面談時間も無視して院長に直談判(脅しがえしをしてやって)して、最初に入院したK病院に転院させたことも今となってはちょっとした微笑ましい思い出だ。
K病院では、あんなによくなった叔母がこんな姿になってしまって・・・と驚いていたことを覚えている。K病院の主治医からは叔母の居る前で、生命維持に近い場所で再発を起こしているので、いつ死んでもおかしくないから覚悟しておいてくださいと言われた。おそらく主治医は認知症も重度(もちろんスケールで測れば0点)で全失語症状もあらわれた叔母には何を言ってもわからないと思ったのだろう。叔母はすがるような目をしていた。もちろん叔母は自分の身に生じた惨事を理解していたと私は思っているし、そう感じている。そんなこともあったがK病院はババの救世主だった。K病院のお陰で叔母は危機的状況を脱したし、今度は言葉を失ったけど、四肢麻痺で入院した身体、主治医からも植物人間になると言われた身体だったが、右手が動くようになった。入院した日からすでに腱反射は亢進し始めていたし、痙性も出現するようになってたから、たぶん動くようになるだろうと私は楽観していた。
その後、療養型の医療機能のあるD病院に移って、叔母はそこで死を迎えた。D病院は歯科機能が充実した病院で、ババの口腔ケアをいつも丁寧にしてくれた。ババの最期4年間の闘病生活を支えてくれたのはD病院だった。今年の7月にはおそらくまた再発を起こしていたのだろう。唯一動かせていた右手も動かなくなってしまった。それでもその後、弛緩した状態から少し筋緊張が高まっていたから、少し機能的には回復しつつあったような気がする。
しかしトロミをつけた胃ろうからの栄養でも熱発を頻回に起こすようになり、8月、9月は胃ろうとそけい部からの高栄養が半々ずつになり、この2週間はそけい部からの高栄養のみとなっていた。母親から肩で息をしていて苦しそう、と知らせ。何かいつもの心配より深刻に、先週久しぶりに叔母のところへ行った。ベットに爪のやすりが置かれていて、爪がきれいに丸く短くなっていることに気付いた。この4年間、ほとんど毎日欠かさず来ていた叔父さんがマイやすりを持ってきてやってくれたそうだ。そういえば、叔父さんも高齢で、手元が危ないからと叔母の爪切りが御法度になっていたのだった。それでやすりに変えたのだ。今になって合点が行った。その日、ババはお風呂には入れないが同部屋の2名が風呂に入るというので病室から出されてしまったので、叔父さんと部屋の外の椅子で話しをした。この間、介護の人が耳かきしてくれてね、奥の方から真っ黒い小指ぐらいの量の耳くそが出てきたんだよ、と言っていた。以前に私も耳かきしたけどな・・と思いつつ、やっぱり介護のプロがしてくれると奥の方から取れるんだな・・と思ったりもした。
翌日来ると、やはり叔母は肩で息をして口を大きく開けて上を向いていて苦しそうだった。枕をやめてバスタオルにして首の位置を下げて横を向かせたら楽になった。首のまわりをマッサージしたりした。肩で息はしなくなっていた。翌日、叔父さんと母親に、肩で息をしていたらこうして!、と伝える。私が首のまわりをマッサージをしていると、少し落ち着くのか、気持ちがよいのか、眠っている。だけどすぐ目を覚まして苦しそうな息をはじめて、うーうーと唸っている。どこか痛いのだろう。針を刺したところが痛いのだろうか。それだけではないような気もするが、よくわからない。とにかく痛いし辛いのだろう。帰り際、だらんと弛緩した首を横にした叔母の目は、病室を出ようとする私を見ていた。名残惜しそうだった。もっといてほしい、いつまでもいてほしい、と訴えているように感じた。叔母がそのように訴えてくることは実はこれまでほとんどと言ってよいほどなかったと記憶している。また来るよ、と言った。今にしても叔母はこれが最期と悟っていたのだと思う。私はその嫌な直感を打ち消そうとしていた。
叔母の様子が変わり、血圧が下降し、昏睡状態になった(らしい)のはその2日後の日曜日だった。その間にも叔父さん、母親は叔母のところへ行った。母親は昏睡状態の叔母に「いままで、ほんとにありがとね、ありがとう」と言ったら、叔母の目から真珠みたいな大粒の涙が出たと言っていた。叔母の元にやってきた看護師に早速そのことを伝えたら、昏睡状態ではあるが意識が戻ったり遠くなったりしているのだと説明を受けたと言っていた。叔父さんと母親は不謹慎にも二人して叔母のベットのすぐ脇で「ババはがんばったよ、私たちもやるだけやった、もう後悔はないねぇ」とか大きな声で話したそうだ。そのことは叔母が亡くなった後に聞いた。みんな、その嫌な予感を打ち消そうとしつつ、死を予感していたのだ。
4年前に叔母がもらした「もういいよ」は、家族から生きることを望まれていないのだから、生きていてもしょうがない、という意味だったと思う。自分のベットに仰向けに寝ていた叔母を家族のだれもがそのままにしていた。継続して服用している降圧剤も水分も取らずに1日以上も寝たままなのに。その週の月曜日にとったCTは異常がなく医師も大丈夫って言っていたから、と。その時は、視覚的予兆として、仕事に向かう道途中で、バッタだかカマキリだかの緑の虫が通りを行く自転車にぐしゃと潰される様が今でも脳裡に焼きついている。何かとても不吉だった。そして今回、生きている叔母のところへ行こうとする最後の夜のテレビで、死、という文字が画面いっぱいに墨字で書かれているものが目に飛び込んできた。それには、生命体としてこの世を吸収してきた存在が、いづれ身体が古びて衰えて、身体が朽ち果てるとともに訪れる、生きることを享受するのなら避けがたくやってくる死をとらえ、不吉でもなんでもなかった。
叔母は最期、苦しそうだったから、死に顔が苦しそうだったら嫌だなぁと思いながら深夜の病院のなか、叔母の病室へ急いだ。叔母のベットのところには、みよことみよこの旦那が神妙で深刻な面持ちでいた。みよこはすごく疲れているように見えた。ババの死に顔はとてもきれいで安らかだった。「幸せだった」という言葉は聞き間違いじゃなかったんだと思った。みよこが、ババはあんなに苦しそうだったのに、死ぬ少し前は全然苦しそうじゃなくて、だから死に顔にも全然眉間に皺が寄ってないと教えてくれた。
「もういいよ」という言葉を残して死んでほしくなくて、その一心だったけど、「幸せだった」という一言が、私の本望だったことにしばらくして気付いた。私たちのエゴに付き合って、苦しい生を身体がその生命を保持しきれなくなるその瞬間まで、懸命に生き続けてくれた。どうしてババのことを思うと止めどなく涙が出てしまうのだろうと考えてみたら、感謝の気持ちが溢れているのだと分かった。