尊厳死法

昨日は、尊厳死法の集会にいった。
ひざわさん、のざりんさん、KAZさん、ひぐちさん、などと話す。
ひぐちさん、老体にお気遣いただき、ありがとうございました。
とこんなところでいっても、気づいてはもらえないだろう・・・。

ところで、尊厳死法というのはつくづくおかしいと思った。
尊厳「生」法だったらわかるが。尊厳「生」法の間違いじゃないの?
例えば、末期癌の患者にしても、最期は苦しくてつらい
延命はしない方がよい、と。楽になれる延命をすりゃいいじゃん。
私だったらそういうことをしてほしい。
苦しむか、死ぬか、の2者択一なんてやだ。
だってたぶん、一番苦しい状態を経て死ぬんだよ。
だから周りにやってほしいのは
とにかく死ぬまで、楽に生きることを助けてくれること。
それ(楽になれる延命)ができないのは医療側の限界であって、
尊厳死法って、そういう限界を、単に正当化しようとしているにすぎないのではないか。
死っていうのは、だれでも、どんなときも、偶然に突然に訪れるものだ。
それは死を宣告された人でさえ、あなたはいつ、何時何分に死ぬなどと
だれも言うことはできない。だから私たちは、生きている間は、訪れる最期まで
その生をできる限りよいものにしていくことしか考えられないはずだ。
自分に対しても、他人に対しても。
尊厳死という考え方は、他人の手を煩わせたくない、という思いと行動が
過剰に美化されている印象を受けるし、ある人の生と死の極限に関わるすべての人たちの、
その人の「死ぬまでよい生を生きるための努力」を少なくとも薄らげてしまう考え方だと思う。
「よい生」の前に「死」があってしまう考え方は、どう考えてもおかしい。
これが法案化されてしまったら、今よりよけいに、
人様に迷惑をかけない生き方が奨励され、それが人の死(に際)にまで及んでしまう
ということだ。おそろしいことだと思う。