障害肯定の可能性

「障害」のスティグマとしてのインペアメントとディスアビリティの位相に着目することからは、「障害」を肯定的に捉えることはできない。正確に言えば、この水準における「障害」は否定的である限りにおいて「障害」なのであって、その否定性を払拭し得たとき「障害」は消去されているのである。これに対して、差異としてのインペアメントの位相においては、「障害」は状況に依存して否定的にも肯定的にもなり得ることが考えられる。確かに「障害」を否定的に意味付ける社会的圧力の下で、「障害」のこの位相についても否定的にならざるを得ない場面は多い。しかし、そうではあっても差異としてのインペアメントは、それがない場合の生き方とは別様の生き方を提供するものなのであり、それを肯定的に意味付ける契機は存在し得ると言えるだろう。
 差異としてのインペアメントを、必ずしも否定的には捉えないという意味で、肯定する可能性を示しているものと考えられる。その差異が社会的にスティグマとして捉えられる「障害」であったとしても、そのような解釈枠組みを共有する必然性はないのであり、「障害」を持って生きる経験の中で、差異としてのインペアメントが他者との特定の関係性において肯定される場合があるのである。このことは、差異をスティグマとして捉える社会的価値を問題にして、その差異が「障害」であることそのものを否認することとは区別される態度である(23)。「障害」がスティグマとして捉えられる状況において、そこで問題にされる身体的差異が「障害」ではなく単なる差異であることを他者に認めさせようとする態度と、自己理解のあり方の中で別様の解釈を与えようとする営為とは別の水準にあるものである。運動の主張として前者が強調されることは自然なことであるが、障害者の日常生活の中で後者が重要な意味を持っていることも確かであろう。「障害の肯定」はこのような文脈で目指され、それを可能にする他者との関係性が模索されているものと考えられるのではなかろうか。
 このように「障害の肯定」は、他者との特定の関係性の中で不確実な形で成立するようなものである。しかし、差異としてのインペアメントの位相に関する限り、その「障害の肯定」が成立する可能性はあると言えるのではないか。差異としてのインペアメントの位相では、スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティの位相とは別の「障害」に対する意味付けが可能であり、それは「障害」が必ずしも否定的なものではないことを意味するのである。
 本稿で検討してきたように、「障害」とは幾つかの位相を含む複合的な概念であり、「障害」をめぐる議論においてはそれらの位相を必要に応じて区別することが重要である。従来「障害」をめぐって種々の立場が矛盾や対立を含んで存在してきたのは、この分析的な区別が十分になされていなかったことに主要な原因を求めることができるように思われる。「障害」の肯定と否定、あるいは肯定と克服は本来障害者がアイデンティティを肯定的に形成・維持していく過程の中で並存し得る態度であると理解されるべきである。「障害」が肯定されるべきものか克服されるべきものかといった問いは、本稿の区別に従えば、「障害」のどの位相に関して問題にするのかという問いに回収される。スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティに照準すればそれはまさに克服すべき対象である。一方、差異としてのインペアメントに照準すると、「障害」は生の特定の条件を形作るのであって、その価値的な評価は本来多様であり得る。それを肯定して受け入れる生き方も、それを否定して改変しようとする生き方も、障害者のアイデンティティを肯定的に形成していく過程の1つのバリエーションであり得る。スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティを克服されるべきものであると考えつつ、しかしそうではあっても現実に存在するそれらの否定的な価値付与の中で、差異としてのインペアメントを肯定的に捉える別様の解釈枠組みを具体的な関係性の中で模索することは、十分にあり得ることなのである。
 とはいえ、「障害」を否定的に意味付ける社会的価値が存在する状況において、差異としてのインペアメントを肯定する生き方を追求することには困難が伴う。そこには差異としてのインペアメントの位相に、「障害」をスティグマとして捉える社会的価値が影響を及ぼし、それと同型の自己否定へと引き寄せられる契機が常に存在する。そして、これは他者による承認とアイデンティティのあり方をめぐる問題(24)をも惹起する。