「医療モデル」と「社会モデル」

相反する障害観を前提としている「医療モデル」と「社会モデル」の双方において「障害の否定」という戦略が共有されていることが分かる。「医療モデル」は「障害」のスティグマとしてのインペアメントの側面に照準して、「障害」は常に治療の対象であり、リハビリテーションによって不断に機能回復の努力が要請されるものであるとする。これはスティグマとしてのインペアメントを「障害」と捉え、治療やリハビリテーションという手段を用いて個人の身体に介入し、身体的な差異を解消することによって、それを消去しようとする志向性を示している。一方の「社会モデル」においては、「障害」があることが問題になるのは、個人にインペアメントがあるからではなく、社会的にディスアビリティが生み出されているためなのであり、そのような社会のあり方が問題であるとされる。ここで社会のあり方、すなわち「できなくさせる社会」(disabling society)が問題とされるのは、「できないこと」が端的に望ましくないという意味で否定的である(14)ことに根拠を持つ。このように「障害」を否定的に意味付けるという限りにおいて、「医療モデル」と「社会モデル」は同じ地平を共有しているのである。つまり、スティグマとしてのインペアメントもディスアビリティも、それが特定の身体的差異と社会的価値との関係の問題として成立している、という共通点を有するから、いずれも「障害の否定」の戦略は個人的側面と社会的側面を持つことになるが、その中で、「医療モデル」はスティグマとしてのインペアメントに関して、個人的側面に照準して身体的な差異を消去することで「障害」を克服しようとし、「社会モデル」はディスアビリティに関して、社会的側面に照準して社会的価値の改変を求めることで「障害」を克服しようとするのである。その結果、「医療モデル」は個人に「障害」の消去の責任を帰属させるのに対し、「社会モデル」がそれを社会に帰責する、というコントラストが生じるのである。この「障害」の帰責は、「障害」を消去するための努力を誰に要求するのかという問題であるとともに、「障害」を消去しきれない場合(通常完全には消去しきれないわけだが)に、否定性を付与される主体を名指す効果を有する。
 このことは、障害者のアイデンティティ問題に焦点を当てる本稿の課題にとって非常に重要な点である。「障害」を否定的に捉えること自体は同じでも、それを自らに帰属させるのでなければアイデンティティに対する否定的な影響は減少する(15)。それは、不慮の事故や理不尽な仕打ちによって陥った自らの望ましくない状況が、自らのアイデンティティにとってそれほど負の影響を及ぼさないのと同様である。
 以上で確認したような「障害の否定」という戦略は、「障害」を持つ当事者の運動の中にも共有されている。例えば、障害者の自立生活運動(16)においては、自立概念の転換に伴う「障害」の脱スティグマ化と、社会がもたらすディスアビリティの解消を目指す制度的アドボカシーとが平行的に推進されている。従来身辺自立に高い価値を認め、障害者にもそのような意味で「自立的」であるための個人的な努力を要求してきた自立観を相対化することで、彼らは「障害」に貼りつけられたスティグマを払拭しようとしてきた。それと同時に、彼らの社会参加を拒み、「自立」を困難にしてきた社会的障壁を解体することも、運動の重要な柱となっている。