「社会モデル」の問題

インペアメントとディスアビリティとの因果的な関連性を切断した上で、少なくとも障害者にとって問題なのはディスアビリティであるとする。このように戦略的にインペアメントを問題系の外部にくくり出すことで、「障害」をまさに社会が解決すべき問題として捉える障害者解放の理論的基礎を準備したのである。

しかし、この「障害」の把握の論理的帰結は、ディスアビリティを解消するという社会的目標の達成がそのままインペアメントの解消をも結果することを指示する。これは「障害」を無化することを目標とするものであるが、しかしそれは「障害」を持つ当事者の実感に応えるものではない。

これは直接には、「医療モデル」からの脱却という文脈の中で語られた言葉であるが、「障害を持ったままで生きていける」ことの重要性が指摘されている点に注目されたい。「障害」を徹底的に社会化してその解消を目指す立場からは、「障害のない状態で生きていける」ことが目標となるはずである。しかし、ここでは「障害」はそれ自体否定されるべきものではなく、むしろ「障害」を個人の生の条件として前提した上でそれに適合的な社会のあり方を問う認識が示されている。少なくとも日常生活において「障害」はこのような意味合いで理解されていることが多い。

障害者の経験の中に占める身体的制約としての「障害」の意味は決して小さなものではなく、それは必ずしも社会の変革によって解消されるものではないことが指摘されている。そうした「自分の体験」は否定されるべきものではないのであり、「障害」に含まれるこの両義的な性格を「社会モデル」は十分に把握しきれない

インペアメントに関する部分では、それがときに否定的なものとして捉えられ、それを浮かび上がらせる社会的価値が問題化される一方で、それ自体は否定すべきものではなく受容していくことが可能であるという見方が存在する、という両義性を読み取ることができる。

人は違う形をした手足をなじられたり、いじめられたりすることがなければ、子どもたちはないことを恥じる必要もなく、実に平和に自己を受容して生きることができる。「ある」「ない」の認識それ自体には何の差別も生じないが、「ないのはおかしい」あるいは「みんなと違うのは変だ」といった価値判断がそこに入り込んでくると、今まで自由に生きてきた子どもがたちまちにして「障害児」にされていく。(野辺明子[2000:119-120])