老健→老健

このあいだ、職場のPTさんと飲んでいて、(私入れて6人だったが、私除いてPTだった)、飲み会もお開きになりそうなところ、私が、自分の利用者Uさんの反省話をし始め、明日になってしまったその話。Uさんは、失語だけ残っていて、からだの方は問題なし。あたまの方も、失語を除いては、まずまず。50代。それまで営業の仕事をしていたので、言葉の障害は致命的ではある。現在は休職中。別の老健からうちに来たのだが、退院後、1週間家にいたが、へんな言動があり、施設入所となった。そして、うちへ。私がまず思ったのは、うちのような介護保険施設にくるべきだったのかどうか。入口の問題だが、私は、手帳はないが、高次脳機能障害ということで、引き受けてくれる身体障害福祉法上の生活訓練施設とかあるから、そっちの情報提供をすべきでなかったのか、とすごく感じていた。その方が、就労可能性の道が開けるんではないかと思ったからだ。介護保険施設では、在宅復帰の支援はできるが、就労の支援はどうしても手薄になってしまう。前の施設では、失語のリハビリはしてもらえなかったらしく、ここに来て、失語は大夫改善してきた。ただ、文章復唱がどうしても苦手で、意味内容をくみとることはできるが、言葉の理解・表出の正確性には欠く。でも職場の人事の人に障害状況を説明してもらう機会を作ってもらったり、復職に向けての働きかけを私なりにはした。けど、結末は、妻の自宅への受け入れ拒否で、まえの施設へ再入所。本人はもちろん復職を望んでいたので、この結果はやはり無念だったと思う。私の思いは、なんで、妻の意向で、本人の人生の方向が定められねばならなかったのか、それをしょうがないとする施設のあり方。私としても悔いの残るケースだった。で、その話に、今、身体障害者の更生施設で働くPTは、そっちでできないから、こっちによこそうという考えなナンセンス。どこでやっても同じこと。そっちはそっちで一生懸命やるしかない、というような反応。もう一人は同僚だが、私の言ってることがリハを否定しているように聞こえたようで、うちのやってることを否定するのか〜、と怒っていた。前者の意見は、一理あるとは思うが、やはり、施設が持ってる機能によってちがってくるんではないか、と私には思えてしまう。Uさんだって、究極、一人暮らしで、授産施設に入所・通所という手だってあるわけだ。でも介護保険施設では、いくらなんでも、そこまでの支援は展開できない(ていうか、そういう視点はそもそもない)。後者の反応には、リハを否定しているわけではないし、実際、失語はよくなり、本人もそれに満足を感じている。でも、今回、もといた施設に戻らざるを得ないような支援展開には問題があると思う。といったが、やっぱり怒っていたような・・・。

もう1つ

少々古い話になるが、京都のOT学会に合わせ、障害受容研究会を行った。N先生はわざわざこの日のために自家用車で京都までおいでくだすった。>お疲れ様でした。で、翌日、障害受容研究会メンバーで、京都近郊在住者をのぞく数名で、京都観光へ。嵐山の方へ行った。天竜寺、とあと縁結びの、何寺だったっけ?(これ見てたらOさん教えて!)と、あと、嵐山から、電車で、車折駅にゆき、駅の目の前にある車折神社に行った。寂れた感じの神社だが、坂口安吾のエッセイにも登場するとのことで、その部分をN先生がお送りくださった。>ありがとうございます。

 隠岐安吾の友人。安吾が京都滞在の折りにお世話になった人)の別宅から三十間ぐらいの所に、不思議な神社があった。車折神社というのだが、清原のなにがしというたぶん学者らしい人を祀っているくせに、非常に露骨な金儲けの神様なのである。社殿の前に柵をめぐらした場所があって、この中に円みを帯びた数万の小石が山をなしている。自分のほしい金額と姓名年月日などを小石に書いて、ここへ納め、願をかけるのだそうである。五万円というのもあるし、三〇円ぐらいの悲しいような石もあって、月給がいくらボーナスがいくら昇給するようにと詳細に数字を書いた石もあった。節分の夜、燃え残った神火(トドン)の明かりで、この石を手に執(と)りあげて一つ一つ読んでいたが、旅先の、それも天下に定まる家もなく、一管のペンに一生を託してともすれば崩れがちな自信と戦っている身には、気持ちのいい石ではなかった。(坂口安吾「日本文化私観」昭和17年3月、安吾36歳のときのエッセー)

そう。そして、私たちが行ったときも、そのような風情が漂っておりました。
おもしろい神社でした。