私的所有論・第8章からの抜粋

p351:私たちが他者から受け取るものの基本的な部分は、他者が私ではないことから来ると述べた。他者にあるものを手段として使うーそれは人の生にとっての必要条件であるーことのできるのは、その他者がそれを手段として切り放すことのできる場合だと述べた。ゆえに、制御の対象として評価するとしたら(制御することと評価することは相伴っている)そういうものしか評価すべきでない。それ以外のものをとりわけ雇用といった人の生がそれによって成り立つような場において、評価・選別の対象とすることは、他者が他者であることを奪ってしまう。
・・・最低限その者の必要に関わる部分以外については他者を評価し選別してはならないという倫理を示している・・・その上で、市場においては、確かに性別・出自等が評価の対象から除外されやすいという事実があり、この事実をもって、市場は肯定的に評価される。

p352:市場に対する評価について。「価値」の問題は市場には内在的に含まれない。そして、市場は、手段を配置し、流通させるのには有効なメディアであり場である。市場の基本的な問題は、生産物が「私」だけに帰着することを構造的に除去できないことにある。そこで、加えて「配分」のシステムがあるべきである。

p355:市場の倫理を設定することができる。市場自体には手をつけない方がよい、などという根拠はない。市場の存在をむしろ認めることによって、「良い市場」を作り出す方向に向かわせることができる。これは単に市場で生じる正当化できない不平等を再分配によって是正するということではない。

P357:私の価値観や私の好悪で人を見ないことなどできない。だが、それによって他者の存在を否定してはならないと考える。これはひとが個別の存在であることと矛盾せず、むしろこのことに発するのである。つまり、「私」の価値や好悪が到達する範囲は、他者の否定につながらない範囲に限定されるべきである。

P359:ここで頭を借りるとき、その場に「仕事をする」という形で参加することの意味はすでに失われている。このときその人にとっての参加する意味は、人がいて活動している場への参加、その場にいること自体である。だから、考えるべきは、そのことがどのようにしたら可能なのかということである。とすると、次に私たちは、職場という場所、「地域」という場所、それらの間の関係のあり方がどのようにあったらよいのかを考えていかないとならない