患者力を引き出す作業療法―認知行動療法の応用による身体領域作業療法

患者力を引き出す作業療法―認知行動療法の応用による身体領域作業療法

 首都大学東京の大嶋伸雄先生よりご恵送賜る。
 認知行動療法は、日本では2010年4月から精神科で診療報酬点数化してるらしい。だけれどもこの本を読むと、その療法の適用範囲の広さが伺われる。身体障害を持つ人の身体シェマの変容による生活適応困難など、認知と行動に関わる変容が生きやすさにつながるすべての人にとって適応可能な療法のようだ。
 認知や行動の歪みが取り除かれ、生きやすさにつながり、自分に自信が持てるようになること、これら認知行動療法の目指すところらしい。
 作業療法士として行うことは、認知行動的歪みに気づいてもらうこと、これに尽きるようである。こうしたクライエントとセラピストの会話を基盤としたカウンセリング的かかわりは、作業療法の取組のなかで同時進行的になされるとある。作業療法士はクライエントをファシリテートしていくに過ぎない。だから会話は、あくまでクライエントの内観をクライエントが言葉によって引き出すことに焦点が置かれる。親身になって関心を示すこと、そのような姿勢がセラピストには期待される。

 作業療法認知行動療法が加わることで、これまで作業療法において重要視されていた「協業」という言葉に具体的展開が見えてくるような感じが本書を読んでいるとしてくる。


 

患者と治療者の間で―“意味のある作業

患者と治療者の間で―“意味のある作業"の喪失を体験して

 この本は音楽家でもあり作業療法士でもある著者が、音楽家としての命綱であったピアノ演奏を行うための手の機能をリウマチという疾患によって失われていく過程を通して、障害を持つ当事者の感覚から、リハビリテーション作業療法の学問文化に当たり前にある障害受容という概念や作業療法が持つ作業観について再考をしたものである。
 両方の立場に身を置く著者は、一方でリハビリテーション作業療法をよく知りつつも、一方で当事者の感覚からすればそれでは自分は救われないといった自分自身の救済をかけた切実なる思いからリハビリテーション作業療法に問題を投げかけている。だからこそこの本に書かれた言葉の1つ1つと、リハビリテーション作業療法を仕事にしている人は向き合った方がよいと思う。
 自分自身と等価であった作業活動を失う経験は、自分自身を見失う経験に等しい。目の前のクライエントの多くは今まさにそのような経験をしているわけである。自分自身を見失う程の要因となる障害の受容を迫る言葉の存在自体の圧倒的な力が当事者にとっていかに当惑するものであるか、かといって作業の再獲得といったところで以前のように演奏活動ができるようになるものでもない状況のなかで、著者の見つけ出した答えは何か。
 この本のネタバレになってしまうが少し紹介すると、その答えにはリハビリテーション作業療法の学問文化の見方を壊すような新しい見方が提示されている。自分自身を肯定することを基本的な立ち位置としたときに、従来作業療法が持ってきた作業観の方が打ち砕かれるといったことである。障害を持つ当事者の感覚に立脚するなら、新しい作業観が見えてきそうである。この本では、前半部分にご自身の病による諸々の経験の丁寧な記述があるために、うえの問題提起がより説得的に描かれている。
 リハビリテーション、とりわけ作業療法を仕事にしている方にはぜひ手に取ってほしい1冊である。

・「100人の旅のよろこび−−ご高齢の方・障がいのある方・旅行介助ボランティアの旅のエッセイ集」旅のよろこび株式会社

尊敬する熊本保健科学大学の佐川佳南枝先生より頂戴する。ありがとうございます。

英語で学ぶ作業療法

英語で学ぶ作業療法

  • 作者: 山内ひさえ,吉川ひろみ,Peter kenneth Howell,酒井はる,菊池恵美子
  • 出版社/メーカー: シービーアール
  • 発売日: 2011/03/25
  • メディア: 単行本
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認知症ケアのブリーフコーチング入門―認知症グループホーム「ひのくち」のケアから学ぶ

認知症ケアのブリーフコーチング入門―認知症グループホーム「ひのくち」のケアから学ぶ

三重苦楽―脳性まひで、母で妻

三重苦楽―脳性まひで、母で妻

この本は、楽歩(ラブ)というお名前を地で行く女性の、生まれてから今日に至るまでのlovelyな自伝です。
とはいっても大変なことも沢山ありました。
例えば出生直後に生死に関わる手術とその後の医療的対応で脳性まひという障害を持つに至ったこと、ご両親の障害に対する(結構強烈とも見受けられる)否定的価値意識とドーマン法との出会いから、学校にも行かずひたすら訓練に明け暮れるという、信じられないような過酷なリハビリ生活をなんと7年間も経験したこと、そうしたリハビリ生活の終焉とともに復活した学校生活と受験の失敗…。
しかしその後、何かがふっきれたように、やりたいことをやりまくる生活に変転していきます。そして、まったくの偶然の出会いから結婚に至る経緯や、妊娠・出産・子育てを行うなかでの葛藤や奮闘の様子について、気持ち豊かに赤裸々にかつ歯に衣着せず書かれてあります。
まずは小気味よい文章も手伝ってとても読み応えのある自伝的エッセイだと思います。
それにしても、なぜ私に楽歩さんのご本の紹介の依頼があったかと言えば、楽歩さんのリハビリ生活があまりに辛く苦しかったために、なぜそんな生活を7年も続ける必要があったのか、それは楽歩さんのその後の人生にとって何らかの意味があったのかと思わずにはいられないところがあり、リハビリテーション作業療法)を仕事としている私に考えるチャンスを与えて下さったのだろうと思います。
さて、楽歩さんが受けたリハビリはドーマン法というものです。理学療法士のドーマン博士によって開発されましたが、その治療プログラムの実施方法は、定期的に訓練機関に行き一定程度のリハビリをセラピストから受けるという一般的な方法とは全く異なり、「親こそ最高の教師」という理念のもと、親がトレーナーとなり一日の治療プログラムを朝から晩までかけて実施するというものです。治療プログラムは直接ドーマン博士から手渡されるそうですが、それにはアメリカの本部で両親ともに1週間の講義を受ける必要があるのだそうです。
少し話がそれますが本の中で楽歩さんがご両親の障害に対する差別意識を激しく抉り出している感さえある文章の一つに小学校の頃の運動会のエピソードがあります。運動会では父親から、健常の子どもたちとハンディをつけることなく正々堂々と競い合い、「立派なビリ」になることを期待されたのだそうです。父親は「養護学校はあっても養護社会はない」という考えを持っており、健常者の中にあって障害者は最大限の努力をすることで周囲からの賞賛を誘うことこそが健常者社会で生き抜く適応戦略であるというような独自の哲学を持っておられたようです。
楽歩さんは、そんな父親の障害に対する考えを「障害者なんて生きている価値がない。たとえ障害があったとしても、全精力を注ぎ込み健常者に近づく努力をしなくては障害者たる者、生きる資格なし」という障害者をバカにする差別的な考えと糾弾しますが、ドーマン法のような親にとっても金銭的、時間的、身体的に大きな負担の生じる治療を7年間も続けることのできた根底には、こうした障害に対する強烈な価値意識が潜在していたということなのだろうと思います。楽歩さんは「親に甘えたことはない」と書きますが、小学校・中学校という障害がない子供であっても肯定的な親の支えが必要な時期に、大きな支えでありながら、それが本人を否定し続けるという矛盾を生き続けた楽歩さんの苦しみはいかばかりだったろうと思います。
本には血のにじむような過酷な訓練によってある程度の成果は得られたとあります。例えばてんかんの発作の回数が減った、聞き取りやすい話し方になった、転倒しづらくなった、などです。だからと言って脳性まひが完治した訳ではないわけです。その後の長い人生を考えるとむしろ大きな弊害も生じたと楽歩さんは考えているようです。それは二次障害と呼ばれるものです。小さい頃から相当な運動量を日々こなしてしまったがために骨や関節に相当な負担をかけたことで関節が摩耗し動かそうとすると激痛が生じるというものです。二次障害によって運動する機会が制限され、機能低下を加速するといった悪循環が生じますので、やはりドーマン法の弊害は大きかったと言わざるを得ないと思います。
ご主人は理学療法士であり、結婚後はほぼ毎晩ボイタ法という治療とマッサージを楽歩さんに施術しており、それは機能維持のためにとても役立っているそうです。だから楽歩さんもリハビリを完全に否定しているわけではないのです。けれどもリハビリの目的が子供時代とは異なるわけです。子供時代のリハビリは健常者に近づくため、それに対して現在のリハビリは人生における楽しみ・幸せを守るため、になるでしょうか。
本の一番最後のページに「いそがしいラブ」というタイトルのついた息子の享太郎君の文章があります。それによると享太郎君は、「しょうがいは、わらいにくい、ことばがいいにくい、かぜにかかりやすい」事だと知り、また、楽歩さんはよく「おこる」ので、「しょうがいは、おこるのが、とくいなのか。」とも考えています。そして、「ラブはこれからもママのおしごとをやっていけるか」心配もし、だけど「ラブは楽しみながら苦しむタイプなので、大丈夫だろう」とも感じています。楽歩さんが享太郎君に対する母親としての立場や役割を近親者の善意から奪われないよう必死に守ってきたことが語られたエピソードがありましたが、そうして初めて形成された楽歩さんと太郎君との親子関係から発見される障害の特性、障害の辛さ、障害の得意技…、それらすべてが生きることの醍醐味で、こんな関係を続けたいという願いに応答できるところにリハビリがあれば良いのだなとあらためて気付かされました。
障害学では親意識への批判から「これはいけない・こうあるべき」というような倫理的視点が展開されてきたと思いますが、この本や今後楽歩さんが織りなす人間関係からは、「人生楽しいときの障害は世界にこんなふうに受け取られています」というような、もっとハッピーな障害学が展開されるヒントが満載なのではないかと直感しました。ぜひご一読頂ければと思います。

i love 八丈島

八丈島、よいですね。いまだに99%自然です。人口密度が少ない分、人間関係が濃い感じがします。島lifeをして島の魅力にとりつかれ、移住する人もいるよう。下、八丈島に移住した漫画家の島ライフを綴ったもの。その下は、八丈島空港をモデルにしたラブコメ漫画。

流されて八丈島~マンガ家、島にゆく~

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軽度障害の社会学:「異化&統合」をめざして (質的社会研究シリーズ6)

軽度障害の社会学:「異化&統合」をめざして (質的社会研究シリーズ6)

著者の秋風千恵さんよりご恵送いただきました。一語一語を丁寧に織りなしているという印象の本です。まだ結論部分しか読めてないですが『「自分らしさ」の陥穽』あたりまさに言い得て妙と感じたりもしました。1970年代の障害当事者の言葉がそれ以降の時代にも言葉としては割と強烈に残っていたとしても、実はそれ以降世代の障害当事者はその当時とは異なった感性・感覚としてその言葉を用いているというようなことです。時代は流れて障害を持つことの生きにくさも変容してきているなかで、たとえ言葉はそのままに時代を生きていたとしてもその内実は実は変容しているのかもしれず、その実態をとらえ、時代的観点から現代の問題をしっかり押さえることが大事と改めて思いました。